*** 子育ち12章 ***
 

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「第 20-09 章」


『子育ては 悲喜こもごもに 彩られ』


 ■徒然子育て想■
『いただきます?』

 夏休みに親子料理教室が開かれました。献立はハヤシライスでした。子どもたちはそれぞれに手分けして調理体験をする手順になっていました。タマネギを切っている男の子が目にしみることに苦戦しているようでした。ニンジンなどはおとなしく切られているのに,タマネギは嫌みが感じられ,それだけに個性が強いということになるのでしょう。野菜の中にはアクの強いものもあり,あく抜きをしないと手に負えません。

 タマネギは何にも言いませんが,タマネギの気持ちを考えておきましょう。タマネギは切られるために育っているのではありません。売り買いされて人の手に渡ることは不本意であり,ましてや命を全うできないのは残念!では済みません。そこで自分を切ると目が染みてひどい目に遭うよという自己防衛の主張をします。それに懲りてタマネギには手を出さなくなるはずという思惑があります。

 同時に,他のタマネギに今危険な目に遭っているから用心しろという緊急メッセージを発信しています。だからといって足のないタマネギが逃げ出すわけにはいかないので,無駄なあがきといえば言えなくもありません。そんな意味のないコトするわけナイジャンと切り捨ててもいいようなものです。でも,タマネギの世界ではそれで十分だと考えてやりましょう。自己防衛と種の保全という生きものに課せられている根本使命を健気に果たしているのです。

 包丁で切るというのは,タマネギにとっては理不尽な振る舞いです。生への冒涜が理不尽であるということは,理というものが生の正しい道であると考えることができます。目に染みるというのはタマネギにとっては理に適いますが,人には理不尽です。でも,仕掛けたのは人の方です。理というのは立場によって逆になり得ます。泥棒にも三分の理ということです。地球に優しいという理も,狭義には人にとってのものでしかありません。地球にとってはどうでもいいことでしょう。

 牛やブタやニワトリを食べている人の理は,牛やブタやニワトリにすれば理不尽です。その理不尽さを免れない生き方を人は悲しみ,生きものの犠牲に感謝し,頂きますと祈りを捧げています。食べ物を粗末にしない,残さずにすべて頂くという行儀は,生きる力を溢れさせる根っこであると意識しておくべきでしょう。タマゴは本来命の素なのに調理して食べられてしまいます。命を頂いているという認識を古くさい考え方と忌避していては,生きる歓びが褪せることでしょう。



【課題20-09:ママお願い! お家のことをいやいやしないで!】


 ○こんなこと・あんなこと!

 「さっさと食べなさい,時間がないんだから」と,ママが急かせます。ママの勢いが激しくて,身が竦んでしまいます。ワタシが食べている途中で,ママは食べ終わって,寝室の方に行きます。お化粧です。「どこに入れたのかしら?」と何か捜し物をしているようです。いつものことです。どうしてママは毎朝ドタバタと忙しないんでしょう。食事はゆっくりしないと栄養にならないって言っているのに! 「ママの卵焼き,美味しいよ」。

 「ママ,このお皿出す?」,「余計なことはしなくていいの!」。スーパーで買ってきたコロッケをお皿に移さなければと思ったけど,ワタシは早とちりをしてしまったみたい。でも,どうするのかな? ママはバタバタと夕食の準備をしています。食卓の上には,スーパーで買ってきたコロッケがラップをはがしてトレイのままで出されています。ちょっぴり寂しくなりました。「ママの手が見えないんだけど」。

 今日は家庭のゴミを出す日です。ボクは家中のゴミ箱を集めてきました。「一緒くたに捨てないように言っているのに」とブツブツ言いながら,ママが選り分けています。ゴミ袋が膨らんでいきます。詰め込むために上からそっと押し込みます。「ウッ」とママは息を止めます。夏なので嫌な臭いが噴き出して来て,そばにいたボクも嗅いでしまいました。「ママ,ボクも手伝うから,がんばろう!」。

 雨の翌日,いいお天気です。玄関に出てきたママがタイルの床を見ています。「こんなに汚しちゃって。どうして次から次に用事ができちゃうの」とため息をついています。床にたくさんの泥の足跡がついています。「水をくんできて」と言われて,バケツに半分の水を持ってくると,ママは玄関に出ている靴を下駄箱にしまっているところでした。タワシでゴシゴシと汚れた床を洗いはじめた。「ママの背中はポカポカしている」。

 ママが電話でお話ししています。笑ったり考え込んだり,お友だちと長〜いお電話です。「そうなのよ,きりがないんだから,嫌になっちゃう」。「そうでしょ」。「パッと思いっきり発散したくならない? なるでしょ!」。「でも,子ども連れではそうもいかないし・・・」。ワタシがいるから? ワタシのせいでママは我慢してるの? 知らなかった! ママはワタシのことやお家のことが好きでしていたんじゃないんだ!

・・・愚痴を言えば憂さ晴らしできますが,前向きの方が楽しいはずです・・・


 ○星に願いを!

 天知る,地知る,己知るという言葉があります。普通は悪いことを思いとどまるために使われています。まず,自分本人が悪事をしたことを知っています。次には,悪事をした場所にはいろんな隠れた目が潜んでいて悪事を記録しています。事件の後で鑑識班によって物的証拠が探索されます。最後には,天の目が見届けているので,逃れようがないという意味です。天の網ということです。思わぬ所から明るみに出るのが,天の采配というわけです。

 星空を仰いで悠久の世界に遊んでみませんか? 深呼吸をして星の淡い光を胸一杯に吸い込んでみると,ざわついている気持ちが落ち着きます。広大な世界に対面すると,自分の無力さとか小ささを感じさせられ,結果として荘厳な雰囲気に包まれます。星に願いを託してみようという気になります。流れ星が消えないうちに願い事を唱えることができたら適うといわれています。原始的な祈りというものを忘れないようにしましょう。

 夜道を歩いていてフッと流れ星を見かけて,願い事を唱えようとしても無理ですよね。いっぱいありすぎて選ぶのに手間取るので間に合いません。欲張ってはいけないということです。星に願いを託すには,いつでも直ぐに口にできるほどに思い詰めていなければならないということです。漠然とではなく明確な目標としていつも意識しているということです。星に願いという儀式では,一心不乱に追い求めるという覚悟を試されているのです。

 ものごとがうまく運ばないとき,努力が足りないからと責められます。努力の先に,どうしようもない領域があるはず,努力をして後は天に任せるしかありません。賭けるということです。努力すれば何事も可能という呪縛にとらわれると,生きることが辛くなります。「努力しろ 言う人何故か 失敗者」という中学生の川柳がありました。努力は必要ですが,それだけではありません。やるべきことはやった,後は運を天に任せるという余裕を残しましょう。

 最後の詰めの部分は星に願いを託す,それが気持ちの健康法です。現代人は,しなければならないという努力一辺倒に自分も他人も追いつめています。まるで神様にでもなったつもりで,何でもできると過信しています。そんな重荷を背負えるほど人は万能ではありません。だから心を病んでしまいます。人としての身の程を弁えることです。願いは近づこうと努力する者の上に,天から降りてくるものです。努力は運を招くと考えておきましょう。

・・・願い事は自分の努力だけではなく,他からの支えがあって適います・・・


 ○家庭は雑事から成り立っています。ところで,雑という字はあまり良いイメージがありません。確かに字義にはそういう意味もありますが,その前に「統一なく集まったもの」という意味があります。統一なくというのは,分類のしようがないというだけのことです。雑草という言葉遣いも同じです。「雑草も 名前を知れば 抜きにくい」という川柳があるように,名前がないと思うから分類できずに「雑」と括ってしまいます。

 家庭の中の仕事を雑用と思っていては生きる歓びが失われます。家庭生活は「共に食べる,傍で安らぐ,語り合う,睦み合う,寝る」という生きることそのものです。そのための雑事をできるだけ逃れたいと背を向けていると,生命の輝きは曇ります。心の中に歓びが詰まらないからです。人生の輝きを刺激で肩代わりし興奮こそ生き甲斐と勘違いしていると,生きる感性は退化するばかりです。何をしてもつまらないという虚しさに吸い込まれていきます。

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