*** 子育ち12章 ***
 

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「第 20-11 章」


『子育ては 現実見つめ 歩むこと』


 ■徒然子育て想■
『状況判断?』

 トリビアの泉という番組を何気なく見ていると,小学校お受験準備をしている子どもに一休さんのトンチを試すという企画がありました。100人の子どもに試したら何人できるかという課題です。一休さんのトンチとは,橋を渡る設定の中で橋の手前に「このはしわたるべからず」(このはしはわたってはいけません)という看板が立っているのですが,一休さんは,はし(端)ではなく真ん中を渡るという回答を導き出したのです。企画の結末は0人でした。

 子どもは正直に「橋を渡ることができない」と受け取ったので,どこがなぞなぞなのか理解できないようでした。壊れて危険だと思った子どもは,橋に石を投げて確かめようとします。怖いものが出てくると思った子どもは,後ろ向きに渡っていきました。子どもなりに真っ当に受け止めているようでした。目の前に橋を見て,はし=端と読み替えるのは無理でしょう。さらにどうしても渡らなければならないという強い意志もないようで,あっさり降参した子もいました。

 一休さんのトンチも,かなりこじつけっぽく,そういわれればそうだが,という代物です。我田引水であり,自分に都合のいい解釈を持ち出していて,下手なディベートと思われるかもしれません。もちろん,一休さんの場合には,背景があります。橋を渡らなければならない用事を抱え,一方で意地悪をされるという設定です。意地悪に対抗するためですから少々のこじつけも許される,つまり意地悪を切り抜けることができるいいわけになっていればいいということです。

 現実の場では,公開される情報は信頼すべきです。立て看板を信頼するという前提から始まるから,子どもたちにとってはなぞなぞではなくなっていたのです。書いてあることを自分勝手に解釈することはいけないことなのです。危険なことなのです。子どもたちが身の危険を賭けてまで別解釈をすることはできなかったということは,とても素直に育っているという証でした。テレビ番組の企画をする大人が,遊び心を弄びすぎたようです。

 トンチという知恵は,時と所,状況の中で生きています。物知りが成功するとは限らないのは,状況の把握が間違っているからです。いろんな能力も発揮する場を違えると逆効果になります。いざというとき,それが最も良いタイミングになります。子どもの育ちも同じで,立つべき時に立ち,しゃべるべき時にしゃべり,数えるべき時に数えるのが一番です。子育てで見落としやすいのは,今がその時かという適時性の判断です。焦りが禁物です。



【課題20-11:ママお願い! ちゃんとできないと責めないで!】


 ○こんなこと・あんなこと!

 クレヨンでピカチュウのぬりえをしています。ママがそばで見ています。「そこの色はそのクレヨンの色じゃないでしょ!」,「線からはみ出さないようにちゃんと塗れないの」。「ワタシはこれでいいの」って言いたいけど,ママの機嫌を損ないそうだから止めました。クレヨンの箱にはきれいな色がたくさん並んでいて,どれもこれも塗ってみたいんだけど,つまんないな! ママはあっちに行って!

 スパゲッティって長いからなかなか口の中に入らなくて,食べるのが難しいね。お皿からこぼれることもあるけど,そうしたら「ちゃんと食べないからでしょ!」ってママに叱られちゃう。テーブルクロスに紅いケチャップが付いちゃうから,汚れるって。でも,食べるものが汚すのってどういうことかな? もしかしたらボクたちは汚いものを食べているのかな? 妹がこぼしたときはママは何にも言わずに片付けていたけど,何故なんだろう?

 お隣のおじちゃんと出会いました。おじちゃんが「ヨッ」と右手を挙げたので,ボクも「ヨッ」って手をあげたんだ。そうしたらママが「ちゃんとごあいさつは!」って言うんだ。「こんにちは」って言ったら,おじさんが慌てて「こんにちは」ってあいさつをしながら,ママの方に軽く会釈をしていました。通り過ぎてから,「ちゃんとあいさつしなければダメじゃないの」ってもう一度ママに言われちゃった。いつも「ヨッ」って言ってるんだけど!

 「今日はどうだった?」ってママが聞くから,「別に何もなかったよ」って答えています。「何もないわけはないでしょう,ちゃんと返事をしなさい」って! でも,どうだったって聞かれても,何を答えればいいのか分かんない。いちいち今日はどんなお勉強したのかって全部話さなければいけないのかな? そんなことできないし,余計なことを言ったらまたママに叱られそうだし? 答える方はあれこれ考えて大変なんだから!

 夕食前です。「手は洗ったの?」。「ハ〜イ」と答えながら,洗面所に行きます。後からママの声が追いかけてきます。「決まっていることがどうしてちゃんとできないの。いつまでも言わせないで!」。そろそろ手を洗いに行こうと思っていたのに,ママがいつも先回りをするんだから! ママはずるいよ。もしかしたらママはボクをちゃんとさせていることが楽しみなのでは? もっと信じてくれてもいいんじゃない?

・・・ちゃんとするしつけは仕上げであり,前には荒削り手順があります・・・


 ○自己確認!

 机上の空論ということが言われます。若い技師が考え抜いて設計した図面を現場に持っていったとき,現場の職人にどうやって作れるのかと問われて窮したという話があります。図面は完成図を描きますが,同時に製作の手順に適う,実際に作ることができるような組み立てになっていなければなりません。それは現場を知らなければ思いつくものではありません。新人社員が現場研修から始まるのは,現場が現実世界だという意識を持たせるためです。

 子どもの教育については,学校は机上の空論,家庭や地域が現場ということになります。絵本の上では可愛いと見えるクマさんも,実際の熊は恐ろしい動物です。アリさんも働き者ですが,下手に手を触れると嫌な目に遭います。絵や文字の世界から学ぶものは,現実世界とちゃんと結びついてこそ生きた知恵になります。家庭や地域では子どもは主役ではなく脇役であり,ごっこという遊びで現実を疑似体験します。体験とは現実認識そのものなのです。

 子どもたちが好きな面白いもの,それは今ではほとんどが玩具という人工物です。暮らしのすべてが人工物からできている中では無理もないことです。だからこそ,子ども時代は自然を中心とした現実を身体で体験することが必要になります。それは自分自身の現実を知ることにもつながります。想像の世界ではどんなことでも可能ですが,現実の自分はできないことばかりです。それが本当の自分だという納得をしたとき,人は何故学ぶのかという理由が分かります。

 ニートと呼ばれる若者の出現は,これまでの子育ち環境に適った進化だと考えられます。子ども大事さのあまり日常の暮らしから隔離し勉強していればと塾通いに追い立て,現実世界に対する無関心,無気力,無感動を蔓延させ,繁華街の浮き世に流されていくという淀みが広がっています。ニートが直面する何をすればいいのか?という自問は,自分には何ができるかという自己確認から解き始めなければ解けません。献立を考えるのは先ず冷蔵庫の中を確かめてからです。

 きつい,汚い,危険という仕事が忌避されてかなりの時が過ぎました。この3K仕事は手の世界であり,頭の仮想世界ではありません。身体を使う現場を離れて机上の空論の世界しか知らないから,自分という生身の人間が見えなくなっています。生身という感性が機能していないから,自分を大切にできなくて,さらには他人にも酷いことができてしまいます。自分の五体を使う歓びを基本としない生き方は,不自然ということです。

・・・育ちとは自己確認から始まり,学習を通しての自己実現が目的です・・・


 ○我が子の現実を受け止めないで,親の思い通りにならないと子どもを責めたり,自責に走ることがあります。子育ては3Kの典型です。親は自分の無力さを嫌というほど思い知らされます。親の無力さ,それが子どもを思い通りに扱えないということであれば,それが本当の現実なのだと受け入れることです。そこから親の役割が何かという疑問は解けていきます。頭ごなしの支配者から育ちに寄り添っていく伴走者に脱皮することができます。

 子どもを目の前にして悩んで立ち止まっている暇はありません。現実の子育てはタイムを取ることはできません。そんな風に自分を追い込まないでください。子どもは自分でも育っていきます。状況は必ずよい方に向かっています。誰しも幸せになりたいと願って生きているからです。確かに子育てはきついことがたくさんあります。それをきついと思うのは,今すぐこうでなければと焦るからです。子育てという道は車でサッと行く道ではなく,歩道なのです。

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