*** 子育ち12章 ***
 

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「第 20-13 章」


『子育ては 産んでよかった ただ一事』


 ■徒然子育て想■
『豊かさの創造?』

 テレビで「世界一受けたい授業」という番組があります。その中で,竹中平蔵先生が「希望格差社会」というキーワードを提示していました。希望を持てるか持てないかということで格差が生じるという趣旨です。豊かさの中でそこそこ満ち足りていて,希望が持てないという状況にあります。さしあたって欲しいものがないということです。欲しいものがないという若者に「それじゃヨットを持っているか?」と問うと,「持ってない,持てるわけがない」と諦めているということです。

 高望みであろうと,何とかしようとする意欲を持てば,前に進むことができます。見限ってしまうと現状止まりもできず,落ちぶれていきます。停滞した閉塞状況は,前向きな動きが見えないことです。何とかなる,できなくて元々,そのような挑戦する気持ちは,希望に向かう気持ちです。この目指すものを持とうとしない,あるいは見極められない,それがニートを産みだしてもいます。立ちすくんでいる状態です。

 この状況を切り開くのは,プロフェッショナルだそうです。考えてみれば,殊更新しい提案とは思えません。かつての日本にはありふれていた人たちです。プロ意識とか,職人根性というひたむきな気持ちに溢れた人たちが社会を支えてきました。今はそういう一途さをダサイと切り捨て,意味がないと捨て去って,時代の勢いが失速しています。バブルの時に創造活動よりも転がすだけの金儲けに血道を上げた安易さから気持ちが抜け出せていないようです。

 凝り性という面もプロにはあります。何もそこまでしなくてもといった丁寧さが良いものを産みだし,暮らし全体の価値を高めてきました。間に合えばそれでいいという妥協ではなくて,少しでも完成に向かおうとする意欲が,具体的な希望となっていました。金のために仕事をするのではなく,仕事に打ち込むことで結果としてお金がもらえるという真っ当な仕事意識です。生き甲斐の実現として仕事をしていたのです。そういう先人の姿を思い起こせばいいのです。

 技能の熟練という面も大事です。ちょいちょいとできる仕事を求めている傾向があります。一人前になるのに10年掛かる,そんな仕事はあっさりと敬遠されて廃れていきます。しかしその熟練の技がなければ,仕事の連鎖が壊れて,技能の積み上げから成る産業という大きなものが衰退していきます。きちんとした部品がなければ,ロケットが飛ばないということです。若年者の減少による人手不足という以上に,技術基盤がボロボロになっていきます。希望とは手の中に埋もれています。



【課題20-13:パパママお願い! 産まれてきたことを喜んで!】


 ○こんなこと・あんなこと!

 「ここはどこ?」。「口からス〜ッと何か入ってきた!」。「オギャ〜」と誕生です。「身体がなんだかスーッとするのはどうして?」。「懐かしい臭いがする,ママの臭い」。「ママがすぐ傍にいるみたいだけど,どこ?」。「柔らかいものが口に触るから思い切り吸ってみたら,口の中に甘いものが入ってきたので思わず飲んじゃった。いいのかな」。「アレッ,ママから何か聞こえてくる」。ドクン,ドクン。「ボク,眠くなってきちゃった,お休みなさい」。

 「ア〜ン,ア〜ン」。「ごめんね,暑かったのね。少し風に当たろうか」。「ウ〜ン,ウ〜ン」。「おしっこが出ましたか。おしめを替えようね。ほ〜ら,気持ちよくなったでしょう」。「エ〜ン,エ〜ン」。「あら,バスタオルが巻き付いて窮屈だったわね。緩めてあげるからね,これで楽になったわね」。「ママはワタシのことを分かってくれるから,とってもうれしい。だから,いっぱいにっこりしてあげたくなっちゃうの」。

 「どうしたの,こんなにズボンを汚しちゃって! さっさと脱いで」。「ボク,泣かなかったよ」。「何を言ってるの,汚して泣くこともないでしょ!」。ママはズボンの汚れを払いながら何気なく膝小僧を見て,「どうしたの,この擦り傷は? 血がにじんでるじゃないの。こっちにいらっしゃい,洗わなくっちゃ」。お風呂場でシャワーの水を擦り傷に当ててくれながら,泣きべそだったボクの我慢のしるしにママの手がそっと添えられました。

 「ママ,その荷物持ってあげる」。「大丈夫よ。それに落としたら大変だから」。「落とさないように気をつけるから」。ママはちょっぴり不安そうでしたが,他にも買い物の包みがあったので,一つを持たせてくれました。しばらく歩いていくうちに,荷物の重さにふらついてしまいました。それでも必死にがんばって,最後まで運びとおしました。ママがうれしそうに「ありがとう,助かったわ」と言ったので,ちょっぴり自慢げな照れた笑顔を返しました。

 「ママ,パパ遅いね」。ママのご機嫌がよくありません。今日はママのお誕生日なのです。テーブルにケーキが用意されています。「パパはママのことなんか忘れているんでしょ!」。「そんなことないよ」。「もう待たなくてもいいから,ケーキを食べちゃおう」。「パパはママが熱を出したとき,一番心配していたんだから」。ママはしばらく黙っていました。「もう少し待っていようか?」,「ウン」。「ただいま」。

・・・子どもの純真さに出会うから,優しい気持ちになることができます・・・


 ○我が子!

 「赤ちゃんはまだ?」。結婚して数年を過ぎると,そんな問いかけが当たり前のように向けられます。望んで努力しているのに,一向にコウノトリが立ち寄る気配がありません。諦めという言葉が思い出されそうになって,やっと恵まれました。大きくせり出したお腹がそれまで答えられなかった返事をしてくれます。待ちに待っていた赤ちゃんですが,腕の中に抱いた赤ちゃんは可愛くもあり可愛くなくもある存在です。それでもやはり我が子です。

 診察室に連れて行かれた我が子,室外の椅子に身じろぎもせずに待っているママ。そんなママの肩をそっと抱きしめているパパ。何もかも要らない,ただ無事であって欲しい! その願いが通じて我が子の笑顔が戻ってきます。日々の何気ない豊かさを追い求める暮らしの中で,あれが欲しいこれも欲しいという気持ちが高まっていきます。いろんな意味で子どもも巻き込まれていきます。一番大事なものが何であるかを見失わずに済みます。

 我が子が学校に行くと,どこかホッとします。世話の煩わしさから解き放たれたという気持ちです。ママのペースにはお構いなくあれやこれやの世話を持ち込んでくる我が子に,何年もつきあわされてきたのですから無理もありません。もうそろそろいいのではと思ってもいいでしょう。それが子離れに入っていく時期だからです。少しずつ距離を置いていきながら,世話の手を出さずに見守るようにすれば,育ちが見えて愛おしさが感じられるはずです。

 我が子が外の世界で子どもたちと一緒に遊んだり学んだりしています。気を揉みながらも親は代わってはやれません。つたないけれど一心不乱に打ち込んでいる姿からは,健気さが伝わってきます。胸が熱くなることさえあります。ビリでも臆することなくがんばっているあの子は私の子,そう言いたくなります。親バカという幸せを感じさせてくれる我が子に感謝します。今現在の途中経過は参考データであり,育ちのゴールはずっと先です。慌てない,焦らない!

 この子がいるから! 怖い言葉であり,うれしい言葉です。この子が私の邪魔をするというのか,この子がいてくれるからがんばれるというのか,それは親の心象であり,この子にはあずかり知らないことです。この子は親に授けられた命をひたすら育むために,親に頼り親を学び親に笑みを向けているだけです。我が子と親の間には命のつながりがあります。我が子は親の命を預かっているのです。祖父母の命も預かっています。孫の命も・・・。

・・・我が子との関わりから,人は温もりや安らぎや喜びを手に入れます・・・


 ○子どもを育てることで,大人は円熟することができます。自我という角張ったものを出していると,か弱い子どもは傷つきます。子どもを庇い世話をするためには,親はどうしても自我を抑え込んで気持ちを丸くせざるを得ません。それが習い性になって,次第にカドが取れてきます。こう言っては語弊があるかもしれませんが,子どもを育てた人の方がそうでない人よりも大人と見なされる場合があります。

 そんなことは結果に過ぎないことであり,子どもを育てることから親はたくさんの苦楽をもらいます。子どもが育ち終えたとき,いろいろあったけどという述懐が親としての役目を果たせた満足感を引き出してくれます。幸せとは苦労があるから手にすることができることを実感できます。月並みなことですが,人生の指針としてとても大切なことです。子育てから得るものはたくさんあります。皆さんも一度じっくりと考えてみてください。

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