*** 子育ち12章 ***
 

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「第 21-04 章」


『子育ては 心の臍が つながって』


 ■徒然子育て想■
『助け合い?』

 最近,福祉計画の策定に関わることが続いています。その中でボランティア活動に対する期待が高まっていることを感じています。何かできることがあればお手伝いをする用意があるという声も聞かれます。福祉活動として計画に位置づけて,それなりの事業を組み上げていくことは可能です。ところが,実際的には一つの大きな問題が埋もれていました。ボランティアだけでは事業が実行できないということです。お店を開いても商売はできないということと同じです。

 福祉活動は受益者が居なければ成り立ちません。社会的な弱者と想定されている障がい者,高齢者,子どもと若い親が受益者です。社会的な活動という表立った場に,弱者として登場させられることに不快感を持たれ反発される方が少なくありません。そっとしておいて欲しいという気持ちです。お年寄りが庇われる際に,年寄り扱いするなと拒否されることがありますが,もっと深くて切ない心情です。

 助け合いと簡単に言いますが,助けられる側の自尊心に対する配慮が大切です。無神経なボランティアという苦情がありますが,助けてやるという態度に見えることがあるのでしょう。優しさは気をつけないと,相手を見下ろす立場に踏み込んでしまいます。助けられることが当たり前であるという状況を日常的に作りだしておく必要があります。助け助けられるというお互い様の暮らしが消えてきたせいで,優しさも居場所を失っています。

 困ったときは「助けて欲しい」と言える勇気が求められますが,その前提として周りの人の優しさを信じてみることです。人が哀れみの目で見ているのではと危惧する気持ちも分かりますが,それは勝手な思いこみに過ぎません。そう思われても構わないと開き直ってしまうのも一つの選択です。思惑などは二の次にして,困ったことが解決すればいいのです。手の空いている人を利用してやればいいとは不謹慎ですが,お互い様と頼り合う気持ちが社会性の根っこです。



【設問21-04:お子さんは,心を許して話せる親友がいますか?】


 ○存在の確信!

 暮らしのタイプがパーソナル化して,子どもは部屋に閉じこめられて,やがて出ることができなくなり引きこもるようになってくる,そんな構図が形を現しているようです。人との関わりが情報機器を介するタイプに移り,相手の心情を読み取る情報が言語だけに縮小したせいで,気持ちの通い合いができなくなっています。情報が不足している部分を自分の勝手な推測で勘ぐっていくと,相手に対するイメージは必ずずれてしまいます。

 人の気持ちがよく分からないという不安は,猜疑心を膨らませていきます。その帰結として閉じ籠もると,心は潤いを失い干からびていきます。面と向かって真っ直ぐにコミュニケーションをしていれば,声の調子や表情などから,気持ちはほぼ適確に通い合わせることができるものです。警戒心も必要ですが,少しだけ多めの信頼を寄せることで,人は和やかに心静かに暮らせます。子どもたちに,人との温かな心の交流ができるような環境を与えましょう。

 幼い子どもの周りにいる人は,子どもから発するほのぼのした空気に感染するものです。それは子どもは純真だという信頼から始まります。しかし,子どもの方は周りの人に母親に対するのと同じ信頼を無条件に寄せるとは限りません。怖がるのが自然です。その時期にいろんな人が信頼できるという経験をたくさん与えて,世間は温かいという学びができるようにしてやらなければなりません。信頼には信頼で応える,そこに温もりが生まれます。

 子どもは自分が信頼されているかどうかという点に関心を持ちます。自分の言うことを素直に受け止めてくれる人には,心を開きます。子ども同士に限らず,近くのおじさんやおばさん,おじいちゃんやおばあちゃんなど,何でも打ち明けることのできる人が一人でもいれば,子どもはその人を仲立ちとして自分が社会につながっていることを実感します。そのつながりが自分の存在感を信じる縁になります。自分はひとりぼっちじゃない!

・・・見守りと見張りの違いは,子どもを信じているか否かに拠ります・・・


 ○こんなこと・あんなこと!

 幼い子ども同士では仲良しの関係はありますが,親友という関係はありません。親友とは文字通りに親しい友というだけではなく,場合によっては親のような立場を発揮することが必要だからです。同じ年齢同士でも,局面毎にどちらかがお兄さんお姉さんであるということです。そうなるためには,もう一人の子どもがある程度育っていないと無理です。自分の思いを話すことができて,また相手のことを思いやれるのは,もう一人の自分だからです。

 幼いときの友だち関係は,選択の幅が狭いために難しいことがあります。他にいないから一緒に遊んでいるということです。成長して世間が広がってくると,気の合う友だちと出会う機会が当然増してきます。友だちは移り変わっていくものです。その自由さを認めてやらないと,子どもは人とのつきあいを重いものと感じていきます。「誰とでも仲良くしなさい」という勧めは,窮屈さを押し付けているようなものです。間合いはいろいろあっていいのですから!

 子どもは子どもなりに迷いや悩みがあります。親に相談すれば,「そんなことぐらいで」と軽くあしらわれるかもしれませんし,逆にひどく叱られてしまうかもしれません。次第に子どもは親に相談しにくくなります。子ども同士であれば同感してくれる可能性があるでしょう。しかし,それは弱みを打ち明けることになり,対等な関係である友だち関係を自ら壊すことになり,優劣の感情を生じてしまう恐れがあります。それを気にすると,隠す方向に神経を使います。

 心を許せる相手とは,秘密を守れる人,評価ではなく受容をしてくれる人,寄り添ってくれる人です。簡単に言えば,一対一の絆が結べる人です。あのね,と何を言っても聞いてくれると信頼していれば,何でも話したくなります。その相手と気持ちの結びつきをしたくなるからです。ママがパパに話を聞いて欲しいと思う気持ちと同じです。一体感,それが生きる意味を実感させてくれるからです。子どもは親,先生,友だちと育ちのステップ毎に一体感を持とうとしています。

・・・心を許せるとは,素直に通い合うことができるという見極めです・・・


 ○たいへん悲しいことですが,子どもが親に危害を加えるという事件が起こっています。「勉強しなさい」という親のしつけにきれてしまったと伝えられています。親なら誰しも口にする言葉ですが,そこでは心の臍の緒がつながっていなかったのではないかと案じられます。子ども自身がなんとなくであっても気にしていることを突かれると逆上するはずです。ズバッと言葉を掛けるのは,乱暴であると弁えてください。

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