*** 子育ち12章 ***
 

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「第 21-13 章」


『子育ては 経験すべて 無駄にせず』


 ■徒然子育て想■
『子宝考?』

 子宝という言葉があります。言葉は思いを表現する必要があるときに生まれ,多くの人に共感されたときに生き残っていきます。最近は親の口から出てこなくなっているような気がします。子宝という言葉は古びているのでしょうか? 言葉は気持ちを表現するだけではなく,気持ちをはっきりさせる力があります。子どもに対して湧き上がってくる親の思い,それは子宝という言葉の扉を得て,確かなものになります。

 子宝,何物にも代え難い大切な子どもという説明が辞書に載っています。「何物にも代え難い」という部分が核心です。今の子ども観には,この芯が抜けているような印象を受けます。子どものことは後回しになっているのではないかと思われることが目に入ってくるからです。親の都合が優先しています。生活に忙しいので子どもには構ってはいられないとか,あるいは子どもを産み育てる環境がないとか,余裕がないと子どもは要らないとか?

 子宝は宝ですが,手塩に掛けて磨き上げてこそ真価を発揮します。宝の持ち腐れにならないためには,常に慈しんで育て上げてやることが必要です。ちょっとの間の世話といった片手間では,磨きになりません。宝には宝に相応しい手間暇を気持ちを込めて注ぎ込まなければなりません。根気の要る子育てをするから,子どもは宝としての姿を現してきます。昔の人はバカな子ほどかわいいと言いました。世話がやけるから,宝に磨かれたということです。

 人は親から命を受け継ぎます。受け継いだ命を子どもに受け渡してこそ,人としての役割が全うできます。命は自分のものと私するものではなく,預かりものと言われることがあります。親から預かって子どもに預け渡す,その命のつながりの中にいるということを忘れたとき,自分の存在の意味を見失うことになるでしょう。豊かさという麻薬に痺れていると,手前勝手な幻想に耽るようになり,生きる道を逸らしてしまうということを危惧しています。命の受け皿だから子宝なのです。



【設問21-13:お子さんは,今日も精一杯遊び学んでいますか?】


 ○よく遊びよく学ぶ!

 輝いている子どもって,どんな子どもでしょう? 精一杯生きている子どもです。では,生きているってどんなことでしょうか? 自分を環境の中に適合させて喜んでいるもう一人の自分がいることです。日射しに照らされた広場で風に向かって走っている子どもは輝いています。環境と同化しているからです。昔から言われているように,子どもは風の子なのです。走りすぎて転んで膝小僧をすりむいて,痛みを我慢している子どもも輝いています。

 生まれたままの赤ちゃんは,何の知恵もなく,何の能力も持ち合わせていません。最低限の泣くだけという能力で育ち始めます。泣くことで親心にリンクしてきます。親は必要な世話や情報を子どもにダウンロードしてやります。子どもは知恵と能力の配線をつないでいきます。機械であるパソコンと違って,子どもという生体は自己生産して独自のバージョンに育ち上がっていきます。ただ配線のつなぎは複雑であり曖昧であり予測不可能です。子育ての難しさがあります。

 子どもの育ちは常に途上です。点数で言えば,0点から100点の間にいます。大人でも育ちの100点は取れていないのですから,子どもはなおさらです。新人がいっぱしの仕事をしているつもりでも,ベテランから見れば何を遊んでいるのかと思われることが,親と子どもの間にもあります。子ども時代は遊びの時代です。言い換えれば本番ではない練習の時期です。自分にないものを身につけるのは一朝一夕にはできません。遊びと学びという育ち行動が続くことになります。

 親の思い違いの一つは,学びといえば勉強と考えることです。そんな狭い範囲に学びを閉じこめていると,育ちの片寄り,育ち忘れ,育ち損ないといった欠陥が成人になって露呈してきます。人としての学びという観点を意識的に保持する努力が必要です。「遊んでばかりで少しは勉強したら!」。ママは子どもが遊ぶことを喜んでくれませんが,頭の配線を作っているのが遊びですから,遊びを中止したら未完成な回路ができると思っていてください。

・・・ママの手のひらの上で思いっきり遊ばせることが,良い学びです・・・


 ○こんなこと・あんなこと!

 雪が降り積もった庭を見て,子どもは元気よく飛び出していきます。自然の変化に素直に反応するのが,子どもの特権です。風邪を引くからダメ,というママの気遣いも出てきます。止めるのではなく,これを着ていきなさいという防寒具の指導があるかもしれません。雪の冷たさを手や顔といった肌で感じてこそ,雪という言葉に実感を持たせることができます。雪という言葉から冷たさ寒さという意味を引き出すことができるようになります。経験知です。

 子どもは犬が好きです。犬を見つけると,そばに行って触ろうとします。顔をペロッとなめられてビックリします。尻尾を振ってじゃれてくる可愛さを体感します。あくびをする犬の口を見て,牙が鋭いことにも気がつきます。犬がじゃれるときには甘噛みをしてきますが,加減をするという思いやりに触れることができます。もちろん,親犬が子犬にちゃんと遊びの中でしつけていることです。動物とも友だちになれることを遊びから学びます。

 赤ちゃんがティッシュボックスを見つけます。つまんで引き出します。今取ったのにまだある? また引き出します。まだ? きりがありません。面白くて止められません。やがて無くなって終わりです。ママはたいへんです。余計なことをしてくれます。でも,赤ちゃんはいろんなことを学びます。ティッシュの肌触り,箱の不思議,繰り返すといずれは終わり,何よりママに叱られたこと,子どもにとっては遊びは学びの宝庫です。

 昼寝をしている子どもが,何か呟きながら足をパタパタしています。夢の中で走っているのでしょう。昼間の遊びを復習し,メモリーを整理しています。経験という素材を使って記憶回路にラベルを貼っておけば,学習の素材がすんなりと入っていくようになります。一つのおもちゃ箱にゴチャゴチャ詰め込むより,この手のオモチャはここにと例示された小分けの箱が用意されている方がすっきり片付くはずです。すっきりとした頭も同じなのです。

・・・よく遊んでいるから,学びがすんなり入ってくるようになります・・・


 ○見聞きするだけの学びでは,いざというときにはあまり役に立ちません。畳の水練といわれているものになります。苦労した人は器が大きくなりますが,実体験から学んだ知恵はしっかりと身にしみ込んで不整合な部分が取り除かれているからです。付け焼き刃が弱いのは,身に付いていない,接合部に脆さがあるからです。苦労というつらい目に遭うときが身に馴染んでいる際の軋みです。大人には苦労という学びがあるように,子どもには遊びという学びがあります。

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