*** 子育ち12章 ***
 

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「第 22-04 章」


『子育ちは 不安な心 癒しつつ』


 ■徒然子育て想■
『児童の権利条約?』

 児童の権利条約は,1989年,秋の国連総会で全会一致で採択されました。その後134ヵ国で批准されました。日本では,90年に条約調印がなされ,93年に批准されました。児童を「大人が保護すべき対象」から大人と同じ人権を持った「独立した存在」と認知するという趣旨で,子どもが自分に関わることで自由に意見を述べる意見表明権,プライバシーの保護や表現の自由などを謳っています。現実には,保護の名の下に,校則で髪型,服装の規制が行われています。

 ところで,憲法には子どもという概念が欠落していると指摘されています。どういうことでしょう? 婚姻の中から新しい別の人間が出現するというアクシデントが想定されていないのです。子どもが登場するのは,第26条の「教育を受ける権利」,27条の「児童はこれを酷使してはならない」のみです。また,「すべて国民は法律の定めるところにより,その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負う」という教育義務が想定されているだけで,子どもは里子的な感じです。

 温かな関係が条文からは喪失しています。憲法は,人間をすべて「個人」と宣言して,「家」というものを追放してしまいました。したがって,生れてくる子どもは必然的に「家なき子」になってしまいます。その綻びを繕うように,憲法制定から5年後,あわてて児童憲章というものをこしらえざるを得なくなりました。児童,子どもという存在は法制度上付け足しとなっているのです。



【設問22-04:お子さんの不安な心を癒していますか?】


 ○こんなこと・あんなこと!

 気にかけるという行為は,人を結びつけてくれます。ママは夕食のおかずを何にしようかと考えながら,家族一人一人のことを気にかけています。パパは昨日がママの誕生日だったと気がつきます。先生は生徒を「子どもたち」とひとからげにして,一人一人を見ていません。子どもはちょっとした自分への気配りを求めています。親が口にする「忙しい,疲れている」ということを分かって耐えています。でも,気持ちの渇きはどうしようもありません。

 刺激といえば,何か特別のことのように思われます。しかし,育ちの上ではなくてはならないものです。例えば,赤ちゃんを家族の話声や家の物音の聞えない部屋に寝かせておくと,刺激を受けることが出来ないので,脳が発達せず白痴になるといわれています。刺激に対して知覚が働くことによって,知力は構築されていくからです。日常生活の中にある生きていく上での情報が刺激として子どもに吸収されていきます。子どもを隔離しないでください。

 親は期待感をもって子どもに向き合います。そこで,思う通りでない子どもをかわいくないと感じてしまうことがあります。子どもは親の期待感を「見張られている感じ」と受け止めます。親の干渉的な働きかけを受けて,「サンドペーパーの上を歩く感じ」と訴えます。それでも,子どもは親の期待を親が喜ぶからとくみ取って努力しています。いい子です。それでも,本当は子どもはありのままの自分を受入れ,認めて欲しいのです。親は期待から自由にならなければなりません。

 腕白な子どもがいます。多少攻撃的であり,友だちからは恐れられたりしています。小さな問題が発生したので,担任が保護者と面談をすることになりました。母は遠くに働きに出ており,祖父母に預けられていました。祖母を待つ間,一応の事情を語りますが黙っています。何気なく「お父さんと最後に合ったのはいつ?」と聞くと,ポーカーフェイスが崩れ,大粒の涙が拳の上に落ちていきました。「小学校低学年の時に別れたまま一度も会っていない」。子どもの心に大きな傷があったせいでした。


 ○ママへのメッセージ!

 ハートボイスという子どもの悩み相談があります。留守番電話に語りかけるという方式のようです。「わたしはどこにいればいいんですか? 学校に行けばいじめられ,家の人には学校に行かないと言われ,わたしの居場所はどこにあるんですか? 朝から晩まで布団の中で泣いているしか・・・」。心の不安はまわりの人が受け止めてくれたら,ずいぶんと和らげられるものです。留守番電話という器械に不安を打ち明けるしかない子どもは,人であることを忘れたいのかもしれません。

 忙しいと言うときの忙の字は,心を亡くすと書きます。忘と言う字も亡くした心です。親であるためには,どんなに忙しくとも子どものことを思いやるだけの心のゆとりを持つべきでしょう。忙しさにかまけて,子どもの心を傷つけても仕方がないというのでは,言葉も乱暴になっていきます。「この忙しいのに,細かなことにいちいち構っていられない」。忙しさの限度は,「笑顔」を忘れるようになったときです。「不機嫌ほど大きな罪はない」とゲーテも言っています。

 子どもが家族を感じるときとしてあげるのは,次のようなときです。
 (1) いっぱい話したいことがあるとき,話を聞いてくれたとき。
 (2) 留守番していて誰か帰ってきたとき,帰ったときに「お帰り」
   を言われるとき。
 (3) 家族で話しているとき,自分の意見を聞入れてくれたとき。
 (4) 喧嘩してふくれているときに,「ごめん,おねえちゃん我慢し
   てね」と言いわれるとき。
寂しい思いをさせないようにというのではなく,寂しさを感じさせることは必要です。寂しい思いをしなければ,心の豊かさには気付かないからです。大事なことは寂しさを癒してやるというフォローなのです。


 ○子どもの学力の低下に現れている知力の未発達は「遅い就寝と短眠化」にあると,データに基づいて講演などで訴えている先生がおられます。寝る子は育つという古諺を忘れているから,子どもの不幸を招いているのです。経験から見つけ出した古諺は,それなりの実効があります。夜になって元気が出るというのは,自然のリズムから逸脱しています。大人はいざ知らず,子どもの育ちは自然の営みであることを忘れないようにしてください。

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