*** 子育ち12章 ***
 

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「第 23-01 章」


『子育ちは 自分の主張 押し出して』


 ■徒然子育て想■
『親離れ?』

 地図を読めない○○という本がありました。電話で道順の説明をする場合を想像してください。相手のいる位置を確認し,そこから誘導していきます。交差点を曲がるとき,相手の立場になって右か左を伝えます。あたかも自分がそこにいるように思い描くことができたら,道案内はうまくいくはずです。人は自分をどこにでもいるように想像することができます。街を颯爽と歩いている自分,想像できますね。

 自分を相対視できるのは,もう一人の自分がいるからです。自分を見失うという言い方がありますが,誰が自分を見失うのかと考えてみてください。自分が自分を見失うとしか言えませんね。もう一人の自分が自分を見て動かしているのです。子どもが自分のことを自分の名前で呼ぶようになったら,もう一人の子どもが誕生してきたと思ってください。子育ては,このもう一人の子どもを育てることにバージョンアップしなければなりません。

 言うことを聞かないのは,自分のことは自分で決めたい,つまりもう一人の自分がママから支配権を移管して欲しいというメッセージです。子育ての転換時期にさしかかったということです。いきなりすべてというわけにはいきませんが,少しずつ子どもに任せていきましょう。俗にいう親離れです。頼りなくてハラハラしますが,歩き始めたときと同じで,徐々にちゃんとできるようになります。任せて見守り続けてください。



【設問23-01:子どもって,どうして言うことを聞かないんでしょう?】


 ○こんなこと・あんなこと!

 第三者化。「ガラスが割れました」と,子どもが言ってきます。「ガラスが自分で割れるはずはないじゃない。割ったんでしょ!」と問い詰めても,「割れた」と言い張ります。「何もしなかったの?」と尋ねると,友だちとふざけていて傍にあった自転車を倒してしまったそうです。自分たちの不注意で割ってしまったと考えようとはしません。自分を埒外に隠匿し,叱責を回避したいからです。自分はふざけていただけ,第三者化して閉じ籠もっているから,聞く耳はありません。

 校則。それは学校生活の管理化のためだと思われています。確かに行き過ぎた面もあります。本来は,先生のために必要な管理ではなくて,子どもたちの自己管理のためにあるものです。「もう一人の子ども」が管理者として,自己管理をする教育の一環です。学校は「ごっこ」の世界であり,自分の行動を整合させる枠組みとして校則が設けられます。縛られるのが嫌なら,自分で規制すればいいのです。言われてするのは,おもしろくありません。もう一人の子どもに気付かせましょう。

 ツッパリ。そうさせている「もう一人の子ども」がいます。授業参観日のことです。「嫌ネ,あんな子がいるから!」。母親達はひそひそと一人の男児に目を向けながら話しています。ある母親がツッパリの子の背中を「チャントセンネ」と,叩きました。家庭の事情を分かっている隣のおばさんの手でした。「分かっているよ」という気持ちを込めた手が,もう一人の子どもを救いだしました。照れたように見えた後,ツッパリの姿は消えていきました。理由をくみ取ってやれば,救われます。

 ある作家の書いた,ビデオの2作品を勧めた文章があります。「もし皆さんがビデオ屋に行ってふとこの2本が目に入ったならば,試しに観てください」とさりげなく書かれています。「ふと」,「試しに」があることによって,「観るべき」と押し付けていません。「観ようかな」という気になるのを待っています。相手が行動の選択をする余地を残すような語りかけです。この待ちが人を動かします。自分が決めた,そう思わせることが大切です。


 ○ママへのメッセージ!

 トイレの躾。「オシッコ出た」と,後から言ってきます。何度か気持ちの悪い思いをする内に,もう一人の子どもが自分の身体に現れる予兆に気がつくようになります。言葉を使うのは「もう一人の自分」ですから,「出そう」と言ってくるようになります。気持ちのわるい経験をさせないようにしていると,自分を見るもう一人の子どもの育ちが遅れてきます。「出そう」と言えるように育てるために,素振りを見ていてそれとなく尋ねてみませんか。

 体罰。頑是ない幼児に危険なことをさせないために,厳しくしつける上で小さな痛みに頼らざるを得ないこともあります。それは必要最小限で済みます。言葉を解するようになると,例えば叩くといったしつけは逆効果です。言葉を使えるということは,もう一人の子ども,自我が誕生しているので,反発だけが増長されてしまいます。叩くと泣きながらにらみ返してきます。そこにいるのがもう一人の子どもです。たとえ話などを通して,もう一人の子どもに語りかけてください。

 1年生の作文が紹介されていました。「ゆうべ,かさをかぶってべんじょのちりがみをかいに行きました。かいちゅうでんとうをつけていきました。あめにぬれるのでだっこしました」。ちり紙が濡れるということを自分の目で見て,自分はどうしたらいいかを考えることができています。自分の身体を使って庇うという行動は,自分を見るもう一人の子どもがしっかりと育っているからできることなのです。予め言われたからやっているという場合には,考える力は育ちません。


 ○仏像をご覧になったことがあるでしょう。仏の目は半眼になっています。眠たそうな半開きの目をしています。半眼の思想による形なのです。全部開くと外は見えますが内が見えなくなります。全部つぶれば心の内は深く見えても外が見えません。つまり半眼にすることにより内も外も見ることができるという考え方です。子どもを見るとき,見た目だけではなく,子どもの内面の育ちにも思いを向けてください。

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