『子育ちは 弱い自分を 慈しみ』
■徒然子育て想■
『足し算?』
曽野綾子さんが足し算の幸福について書いています。「私の出発点はいつもゼロから出発する。ゼロから見ればわずかな救いもないよりは遥かにましである。私のは足し算の幸福であり,いつも自分の不幸を嘆いている人がいるとすれば,それは引き算の不幸のように私は思う。どちらがいいとかわるいとかいうことではないが」。こうでなければと思うのではなく,そう思えば気持ちが落ち着くこともありますという提案です。
ものは考えようです。観点を変えると,結果は逆になります。特に人の気持ちは,考え方でどうにでも変わるものです。例えば,うちの子はどうしてこうなんだろうと見ていると,子どもなんかいない方がいいと思ってしまいます。赤ちゃんで何もできなかった子どもがここまでできるようになったと見てやれば,しっかりと育っているということが分かり,明日が楽しみになります。0点から5点,10点,30点,65点,80点・・・。前向きの気持ちになることができます。
上を見ればきりがない。人は自分のことをまわりとの比較で見る癖があります。いわゆる相対評価です。そこからは競争の視点が引き出され,勝敗という結果が突きつけられます。競争原理はやる気を引き出すためには有効なことですが,それは限定された範囲で機能するものです。子育ての場合,育ちの競争をしてしまうことは全く意味のないことです。育ちは個人的なペースがあり,また先はとても長いので,競争とは異質なものです。育ちとは絶対評価すべきことなのです。
【設問23-10:子どもって,どうして気持ちが安定しないんでしょう?】
○こんなこと・あんなこと!
FORMAT教育。パソコンでは時にフォーマットをすることがあります。そんなやり方を全く無意識に子どもにも適用してしまう過ちが見受けられます。例えば,指導する場合に,次から次に「これこれは覚えておかねば」とインストールしようとします。記憶させればすぐに機能するものとして,ハードディスクのように思われていたら,子どもはたまりません。生きている子どもは機械扱いされると,追い込まれていき,気持ちがついて行けなくなります。
横並び社会。子どもたちは年齢ごとにまとめて育てられています。似たもの同士ですから,たくさんの子どもを一様に扱えるという教育上の便法です。ところが,それが生活の中心になると,お互いの小さな違いを穿り出そうとします。子どもでも同じは嫌という気持ちを持っているからです。些細な違いを取り上げるのは,ほとんど言いがかりになり,いじめとなっていきます。気持ちがピリピリして,落ち着かなくなります。
保育園でのお話しです。自閉症の子が入園し,よくなって卒園しました。先生は教育者として生き甲斐を感じました。全盲の子が入園してきました。どうしても治りません。自閉症の子を治すのが教育なら,目の見えない子の目を見えるようにするのが教育? 教育とは,目の見えないままで幸福にしてあげることではないかと気付きました。教育は人格改造? そう思いこんでいないでしょうか? 子どものありのままを否定すれば,子どもは救われません。
(追記:自閉症の子を治したというのは先生の勘違いでしょう。自閉症は今では自閉的障害と言われ,脳や遺伝子に何らかの障害があり,現在の所では治るものではないと考えられています。行動療法や薬などにより障害を少なくする改善などが行われているようです)。
エリートたちがなぜオウムに? そんな疑問が議論されたことがありました。優等生は完全性を求めます。理屈に合わない現実の方が間違っていると錯覚します。自らの思考に懐疑性を持ち得ないために,超能力のうさん臭さにも鈍感になります。実証的な考察が生き方にまで染み込んでいません。中途半端な優等生です。自分の足元である現実を実感できなくて否定するようになると,不安な気持ちにとらわれ,虚ろな概念にすがるしかなくなっていきます。
○ママへのメッセージ!
弱さ,そのものはマイナス価値ではありません。弱さに逃避する甘え,弱さを否定する自惚れ,弱さを拒否する自棄,いろんな形があり,それぞれ望ましくないものとなっています。いきおい,弱さは持たないほうがいいということになっていきます。しかし,本当のところは,弱さを自覚することが明日への希望を芽生えさせます。また,自分の弱さを自覚できていれば,他人の弱さも認めることができて,人へ優しくなれます。弱くてもいいという安心が育ちの出発点です。
叱咤。子どもはいつも叱られていると感じています。例えば,「こんな成績では高校・大学に行けない!」と追いつめられます。先を考えて,「ダメ,コーセヨ」と言い続けるのは,ただ先に駆り立てられることであり,疲れるだけです。何をやってもダメ出しでは,嫌気がさして当然です。可能性とは,目の前の一歩として今できることをすればいいということです。今が見えていれば気持ちは充実してくるものです。将来を見て進もうとするから,足元が覚束なくなる不安が出てきます。
携帯電話。片時も携帯電話の画面から目を離すことができないのでしょう。歩きながら,自転車を転がしながら,片手と目は釘付けです。メールが届いたら,サッサとスグに返信しないと拙いという強迫観念があると聞きます。人が機械のペースに合わせて生きているのが普通になったせいで,人のペースがズタズタになっています。育ちは人そのものが持つ生理と,ゆったりとした触れ合いがマッチして進展するものです。生きる力の基盤が何か,じっくりと考えてみましょう。
○子どもたちの歩く姿勢に目を向けてください。肩をすぼめ,靴を引きずるようにドテッとした感じではありませんか? 食べる姿勢はというと,片肘をテーブルに突いて,どんぶりに顔を突っ込んで犬食いなんてことはないでしょうね? そんな姿は誰かに支配されている奴隷のものです。作法の権威である必要はありませんが,美しさという概念が,持ち物や装いに限定されてしまっているような気がします。美しい振舞いをこそ真剣に見てやりましょう。