*** 子育ち12章 ***
 

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「第 24-03 章」


『子育ちは 大地にあって 芽吹くよう』


 ■子育て一言メモ■
『子どもは母親をその笑顔で見分ける!』

 子ども部屋を用意してやっているご家庭も多いでしょう。夕食がてら見ていた子ども向けのテレビ番組も終わると,「いつまでテレビを見ているの!」と追い払われます。行き先は子ども部屋です。静かな部屋の窓際にある机に向かって,おとなしく子どもは宿題をしているはずです。ところで,もしもパパが会社で活気のある中心から離れた窓際に座わらされているとしたら,バリバリ仕事をしようという気になるでしょうか? 答えは「ノー」ですよね。窓際の子どもも同じです。

 静かな子ども部屋は子どもを隔離された寂しい気持ちにさせます。孤独に追い込まれて落ち着きません。やがてラジオをねだります。人の声がほしいのです。子ども部屋は子どもの居場所にはなりません。子ども部屋とは本来「寝室」であり,勉強する仕事場やくつろぐ場所ではありません。もう一人の自分がしっかりと育ってくると,自分のアジトとしての意味合いが出てきて,孤高を楽しむ場合に使われるだけです。

 家族のめいめいが活動する所はファミリールームです。お互いの声を聞き気配を感じることで落ち着きを得て,さらに皆がしている仕事を横目に入れることで活気が生まれ,自分の仕事に励むことができます。家より塾の方が勉強する気になるのは,講師の指導もさることながら,皆でしているという学びの雰囲気に包まれるからです。リビングルームでくつろぎを得る暮らしのパターンが定着した中では,子どもだけが追い出されるという仕打ちは,シカトに匹敵します。

 子どもの居場所とは,家族の中に包み込まれている場所を持っているという意味です。言い換えれば,親と触れ合う場・機会が確保されているという安心感が,そこを居場所と思い込ませてくれます。冒頭の言葉は,紀元前のウェルギリウスの言葉です。「何処で育つのか?」という第二の問に対して,「安心の場で育つ」と答えることにします。笑顔は相手を受け入れるサインです。母親の笑顔が見える場所,そこで子どもは安心することができ,育ちの意欲が湧き上がってきます。



【設問24-03:あなたのお子さんは,自分の居場所を持っていますか?】


 ○親としての禁句?

 父親の禁句!:「お前たちのために苦労している」。子育ての場面で父親不在を責められて,パパはつい「誰のお陰で!」と言ってしまいます。子どもが中学生にもなると「別に頼んでいない」と切り返されて,さらにパパは向きになって「何だその言いぐさは」とエスカレートしていきます。いわゆる売り言葉に買い言葉になります。パパの気持ちも分かりますが,やはりそれを言ったらおしまいなのです。それはパパ自身がいい子ぶろうとしているだけだからです。

 言われた子どもの立場になってみます。自分が居るばっかりに父親が苦労している,自分は父親にとってお荷物で,居ない方がいいんだと直感します。自分の存在が否定されるわけですから,不安が募るばかりです。とうてい素直に聞き入れることはできません。そこでせめて「頼んではいない」と押し返すことでお荷物になることを辞退しようとしているのです。父親とのつながりに居場所を失いたくないとしていて,いじらしいではありませんか。

 母親の禁句!:「やっと手が掛からなくなった!」。母親らしさを周りから押し付けられてがんばっていますが,やがてわが子が入園・入学を迎えます。ママはつい本音を漏らし「やっと子離れできた」とほっとします。子どもが留守の間,それまで我慢してきた自分のしたいことができるので当然です。ママの気持ちも分かりますが,やはりそれは感づかれてはいけないのです。それはママ自身が自分の世界に閉じ籠もろうとしているからです。

 子どもは新しい環境に向けて不安がいっぱいです。それなのに自分が出かけるときに母親がほっとしていると気付いたら,余計に不安になります。いなくなることを願われているのですから,まるで追放されているような気持ちになります。大好きなママが自分の帰りを心待ちにしてくれていると思えるから,がんばって登園・登校ができるのです。母親とのつながりに安心できる居場所があってこそ,子どもは前向きに育ちます。

 ・・・見守りと見張りの違いは,つながりの確信の有無です。

 守るべき大人が子どもに張り付いてあら探し。車を運転していてパトカーを見かけたときに緊張しますが,お巡りさんはこちらのミスを見つけようとしているという妙な勘違いをしているからです。参観時の親の目が背中に刺さるような感じは,見張られているという気持ちです。温かい見守りの目は自分を信じてくれているという思いに重なるものです。親が見つめずに横目で見ているようにすれば,子どもは信じて任せられていると思います。


 ○ママへのメッセージ!

 ※「お母さん!」・・・子どもの命綱?

 クラス中からいじめられて,「家の人へ」という書き出しの遺書を残して自殺した男子中学生がいました。そのことを耳にしたとき真っ先に思ったことは,なぜ「お母さん!」ではなかったのかということでした。子どもにとって最後の居場所(逃げ場所)は母親の懐以外にはありません。パパにすればさみしいのですが,その点では負けても悔い無しです。家の人という突き放した言葉しか書けなかった疎外感は救いの綱の喪失になりました。

 子どもはママの都合などお構いなしにまとわりつき,「お母さん」と話しかけてきます。忙しいママはつい「何か用?,ママはそれどころじゃないの」と,子どもとの触れ合いを拒否せざるを得ません。子どもは「特別な用がなければお母さんに話しかけたらいけないの?」と思うようになります。格別の用が無くても,子どもはママそのものを求めたくなるときがあるものです。「なあ〜に」としっかり受け止めてください。ママの忙しさは子どもにも見えているのですから。

 ここ一番という相談をするときは,大人でも迷います。ましてや子どもは,思い切って「お母さん」と呼びかけても,次を言い出すのに逡巡します。そのとき,ママがちゃんと向き合って迎え入れてくれなければ,「もういい」ということになります。たった一度の大切な「お母さん」を聞き逃したら,子どもの命綱は切れるかもしれません。ママにとって子どもが言ってくる「お母さん」は,目に入らぬ印籠と同じです。恐れ入って聞いてやってください。

 母親が鬼の顔に見えるという子どもがいるそうですが,とても残念です。ママの優しさを疎外するだけではなくそこまで追いつめているのは,パパにもかなりの程度責任があります。ママを優しいママにするのが,パパの出番です。子育てをママに任せるというのはパパの役目放棄です。仕事で忙しいという理由は子育てとは別世界の話です。パパにはパパでなければできない子育てがあります。パパ役をママに押し付けるから,ママが疲れてしまうのです。パパの子どもでしょう?


 ○人は人とのつながりに居場所がなくて不安になれば,守りに入ります。守りにエネルギーを使い果たして,育つどころではなくなります。閉じこもっている間は,育ちが足踏み状態になります。もちろん,籠もるという育ちのプロセスも必要ですが,それは自分が選んでこそ意味を持ちます。子どもが最も強く絆を結ぶのは親や家族との間ですが,核家族では親しかいません。突き放すしつけが過ぎて子どもの居場所を奪うことにならないことが次の課題になります。

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