*** 子育ち12章 ***
 

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「第 24-06 章」


『子育ちは 心通わす 言葉聞き』


 ■子育て一言メモ■
『絵とは何とむなしいものだろう!』

 大変素敵な女性がいました。語り合えば飽きることもないほど知性あふれた話題が続き,仕事もばりばりこなしていました。ある男性と親密になり結婚に向けてお付き合いをしていました。あるとき二人で夕焼けをながめていました。男性から「きれいな夕焼けだね」と語りかけられたとき,「○○の描いた夕焼けの色は・・」と画家の名前を挙げて話をつないでいきました。それからしばらくして二人は別れ,男性は別の女性と結婚しました。

 男性はつきあっている中で今ひとつピンと来なかった理由,なぜかしら疲れてしまう訳が分かったからです。夕焼けの美しさを知的に語り絵解きするのではなく,夕焼けを見て素直に美しいと共感できることが大切だったのです。つきあっていて楽しいタイプと,一緒にいるとほっとするタイプは違います。もちろん,男性が結婚した女性は夕焼けを共感できる人でした。母と子も一緒にいるとほっとする間柄でありたいですね。

 美しさを絵に見ている女性は美を知性的に考えています。自らの感性が後回しになっています。確かに絵は美の素晴らしい仲介物であり,画家は美の発見者です。美しさは絵にあるのではなく,絵を通して見えてくる現実の森羅万象にあります。目の前に広がる夕焼けは絵の夕焼けの原風景なのです。それを感性が素直に受け止めさえすればいいのです。美しいものに対するその素直さが共鳴すれば,人はお互いにほっとするはずです。

 美しさを意図的に造り出そうとするのは困難です。それは不自然なことだからなのでしょう。道徳的なしつけでは美談を語って聞かせることがあります。美談を目標にして努力してほしいという願いがあります。しかし,子どもはどこかで「それはまがい物ではないか?」と,直感的に感じ取っています。美談とはそうしようと思ってしたことではないはずです。素直な気持ちでごく自然に発生したはずです。自分の中に美しさを見つける力を身につけたいですね。

 冒頭の言葉はパスカルの「パンセ」にある一文です。前文があります。「実物には一向に感心しないくせに,それが絵になると,似ているといって感心する。絵とは何とむなしいものだろう」。美しさは人に押し付けられるものではありません。美しさに共感する自分の感性が見つけ出すものです。自分の中に美しさを持つということです。それが人格というものの核になります。草花を見て美しいと感じる,それが始まりです。



【設問24-06:あなたのお子さんは,美しい言葉遣いをしていますか?】


 ○美のメッセージ?

 妹がお兄ちゃんのしでかしたいたずらを言いつけにやってきます。「ママー,お兄ちゃんがね,塀に落書きしているよ」。「またいたずらしてるのね。しようのないお兄ちゃんね。後で叱っておきましょうね」。そう答えながら,ママはちょっぴり心配です。仲良く遊んでいるのに,妹は何かといえば,お兄ちゃんの悪さを告げ口してきます。イヤな性格に育っているのではないかと気がかりで,人のことなど構わないようにしてほしいと内心では思っています。

 ママは妹をもっと見つめてやるべきです。「兄を後で叱っておこう」と言ったときの妹の表情です。うれしそうにしているでしょうか? そうではないはずです。試しに「そう。でもあなたはしなかったのね。偉いね」と言ってやると,きっと喜ぶはずです。自分もまねして落書きがしてみたかったけれども,してはいけないと我慢していたのです。その健気さを分かってもらえれば,兄のことなどどうでもよいはずです。

 子どもは自分の気持ちを上手に表現できません。表立つ行動を語ることしかできません。しなかったことは形がありませんから,話せないのです。もちろん,しなかった気持ちも伝えられません。言外に隠された子どもの気持ちを,聞き取ってやる聞き耳が求められます。妹は決してイヤな性格などではないので,安心していいでしょう。ママのお眼鏡違いなのです。子どもの言葉に隠されている素直な気持ちを聴き取ってやれば,美しい言葉遣いができるようになります。

 因みに美とは? 人は花を何故美しいと見るのでしょうか? 普段はそんなことは考えたことも無いでしょう。美しいから美しいと感じているだけですよね。植物は昆虫に向けた「受粉を手伝って」というサインを花に託しています。そのサインを感じ取る本能が人にも残っているようです。花の語り掛けが聞こえてくるのです。花によって世代を交代させようとする植物の健気に生きる姿に,人が共感し「花の美しさ」と定義してきました。もちろん聞く気にならなければ聞こえませんが・・・。

 ・・・美しさと醜さとの違いは,生きることに対する共感の有無です。

 汗を流して働く人を格好悪いと避ける風潮があるようです。きれいにお化粧して優雅に振る舞う人がきれいと見られます。感性が美しさとは別次元に入っているようです。汗して働く人を美しいと感じるのは,懸命に生きていこうとしていることに共感できるからです。汗すれば水に流せばいい,汚れたら洗えばいい,そんなことには構わずに,ひたすら生きることに真っ向から突き進んでいる姿,それが野の花の美しさと重なります。その共感が失われるとき,感性は醜さを生み出します。


 ○ママへのメッセージ!

 ※以心伝心の勧め!

 玄関で靴を脱ぎっぱなしにする子どもに,ママはいい加減うんざりしています。一所懸命に口うるさくしつけているつもりですが,しつけられてくれません。「きちんとする」ことがどういうことか,具体的に教えなければ子どもには分かりません。幼児であれば,例えば玄関に靴の形を書いてやって,それにそろえるように指示してやるとできるようになります。きちんとという言葉は曖昧なので,親が何度伝えたつもりでも,子どもに意味は伝わりません。

 ママと一緒に歩いている子どもが,道ばたに咲いている花を見て立ち止まっています。「何をぐずぐずしているの,早くいらっしゃい」と急かせます。子どもは風景の中から花を見つけだして何かを感じています。そのときに,ママが「きれいな花ね!」と言葉を掛けてほしいのです。そうすれば,子どもは今感じている気持ちを「きれい」と表現できることを覚え,意識化することができます。同時に,「きれい」の一言でママと共感出来る,つまり心が通いあうことを確認します。

 ママがきわめて優しい言葉をかけながら冷たさをたたえた表情をしていると,子どもは戸惑いを感じます。それが続くと情緒不安定になり,やがて心の病気にかかっていくそうです。子どもでもタテマエの言葉とホンネの表情を見分けることができます。ママが隠している「あなたには手を取られたくない」,「あなたには面倒掛けられる」といった否定的な気持ちは,表情になって発信されています。子どもはそれを母親からの受動的な攻撃と読み取ります。

 ママは大変だなと思っていても,次から次に追い立てるようなママの不機嫌な顔を見ていると,子どもは防衛本能からつい逆らわざるを得なくなります。そうするようにママがし向けているのです。その意味で,子どもの行動は親の鏡とみなすことができるのです。ママから疲れている不機嫌さを突きつけられても,子どもとしてはどうしようもありません。実際には難しいことでしょうが,美しい会話は言葉の美しさだけではなく表情の美しさも伴うものであることを知っておいて下さい。


 ○学力の国際比較による子どもたちの相対的なレベルの変化が報道されます。かつて上位にあった日本が,理数系で順位を落とし,最近は読解力までも低下しているそうです。情報化社会の中で読解力が落ちていては,情報の活用は覚束なくなります。言葉がもう一人の子どもの母乳であると述べておきましたが,言葉の偏食が過ぎて,知恵の総体がやせ細っていると考えられます。生きる力や学ぶ力といった能力の育ちについて考えることが次の課題になります。

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