*** 子育ち12章 ***
 

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「第 24-07 章」


『子育ちは できた経験 積み重ね』


 ■子育て一言メモ■
『金は三欠にたまる!』

 力として最も身につまされているのは,金の力です。通貨は通過するだけです。力の例題として考えてみましょう。お金が有るところから無いところに動くときに,力が発生します。お金持ちとはお金を使う人のことで,溜め込んでいる人はただのケチにすぎません。同じように水も流れるときに力を生みます。つまり,力とは何か在るものが他に向かって動くときにしか現れません。出し惜しみをすれば無力なのです。子どもに大人がよくいっている「すればできるのに」というのは正しいのです。

 ところで,ほとんどの子どもに求められている知力は知識を得ることですが,少しばかり考え違いがあります。知力とは他に向けて使うときに現れる力をいいます。例えば,試験の成績に向けて発揮されるように,自分のために使うのは知力とは言いません。簡単に言ってしまえば,自分以外の役に立てるときに力になるのです。能力の能はできるという意味ですから,行動可能性が他に向けて引き出された状態が能力の発揮ということになります。

 パパと遊ぶのが好きな子どもたちは,思いっきりぶつかっていきます。パパは強さを見せようとがんばって,びくともしません。「パパはすごーい」と思います。そのことは大切な親子の触れ合いなのですが,そのままだと困ったことが起こりかねません。子どもが友達に父親に対するのと同じようにぶつかると,相手の子どもはたまらず押し倒され怪我をするかもしれません。乱暴な子というイメージを持たれてしまいます。相手を見て力を加減することを教えておかなければなりません。

 おじいちゃんがいて相手をするとしたら,どうするでしょう? おじいちゃんは数度目には,「○○ちゃんは強いな。負けた負けた」と言って降参します。本当におじいちゃんはしんどいのかもしれませんが,実のところは子どもに力の加減を教えているのです。力を入れ過ぎると相手が転ぶことを体験させています。何気ない光景ですが,核家族で失われた子育てです。パパは,子どもがムキになってきたら負けてみせることです。力の加減を経験させないと,力の発揮が暴力にすり替わります。

 冒頭の言葉はことわざです。お金を貯めたいと思うなら,三つのこと,すなわち義理,人情,交際を欠けばいいという意味です。文字通りのことを勧めているのではなく,義理,人情,交際を欠いてまで金を貯めるような守銭奴に対する軽蔑の意味が込められています。金力に限らず知力も体力も同じです。「何が育つのか?」という第四の問に対して,「能力の正しい選択」と答えて,考えていくことにします。



【設問24-07:あなたのお子さんは,能力の形を身につけていますか?】


 ○できる能力?

 子どもたちに求められる能力として,「新しい学力観」とか,「生きる力」など,いろんな種類の力がいわれてきました。大人の世界でも「能力開発」グッツが流行っているようです。百ます計算で基礎力を鍛えるというのもあります。学力というものの捉え方がかなり動揺しています。学力は「知って覚えるもの」というイメージが持たれていました。自分による自分のための勉強が学力であるという考え方でした。学力は学ぶ力と書きますが,「何を学ぶのか」という点が欠落していました。

 一言に能力と言いますが,その具体的な内容があいまいです。能力の中身は例えば,知力,徳力,体力と分けてみることができます。もう一人の自分が知力を,自分が体力を,そして一緒になって徳力を備えたときに,できるという行動可能性が「してあげられる」という能力にまとまります。こう考えてくると,知,徳,体のバランスが能力の基本的な形であるということになります。知力を主とする学力は一部分でしかないのです。

 ただ単に知ることは教えられれば済みます。万引きはいけないことと子どもでも知っています。こうした知力をどのように生かして使えばいいのか,それは社会的な体験を通して学ばなければなりません。大切なことは持っている力の適切な使い道を学ぶことなのです。能力は教えられて身につくものではなく,自ら学ばねば獲得できないものです。このできるという能力を,最近は「生きる力」と称しています。そこには,生きるとは自分1人ではできないことという了解があります。

 学力について,もう少し具体的に考えておきましょう。学校で授業を受けて知識を得ます。ところで,子どもたちには理解の程度に差が現れます。いまいち内容を飲み込めないうちに時間切れになります。そのときから学びが始まります。分かった子がよく分からなかった子どもに教えるのです。理解したことを友だちに自分の言葉で教えてあげることが学力です。友だちに教えるという働きかけによって,覚えたことが使われて,できる学力に完成されます。

 ・・・知恵と知識との違いは,共に生きることに対する恵みの有無です。

 昔とは様変わりをして,今では学校教育を受けた経歴を持っている人がほとんどです。それなのに,世間が住みづらくなっているようです。信頼関係が相対的に希薄になっています。例えば,日常的な会合や話し合いでも,他を批判することには熱心ですが,生かそうとすることは皆無です。揚げ足を取って袋だたきといった言論のリンチまがいの様相です。自分は何もせずに他人のすることのあら探し,知識はありますが知恵が貧相,大切な学びを忘れてきたのでしょう。


 ○ママへのメッセージ!

 ※「できたね!」の勧め!

 もう一人の子どもは言葉を母乳として成長すると言っておきました。言葉を話せるのはもう一人の子どもの育ちなのです。言葉を覚えてさまざまなことを知るようになります。つまり知力が身についていくと考えられます。ここで育ちの見方について注意をしなければなりません。赤ちゃんの時は子どもの運動体力を見ていますが,おしゃべりについてはもう一人の子どもの知力を見ているということです。「こんなことまで話せるようになった」と子どもの育ちを感じているはずです。

 情報化社会の中で,人はいろんなことを知りうるようになりました。子どもたちもいろんなことを知っています。知ってはいますが,具体的な行動は褒められたものではないようです。きちんと,ちゃんと,真面目に,といった姿が少なくなりました。学校で思いやりの話を教わり知ってはいても,それを実行できなければ能力とは言えないのです。もう一人の子どもは知っていますが,それを実行できるのは実体としての子どもなのです。両方の成長が揃わなければ無意味です。

 もう少し説明をしておきましょう。ママが夕食の支度でキュウリを薄く切っています。もう一人の子どもはキュウリを包丁で切ればいいことを知っています。ところが実際にやってみるとそう簡単ではありません。パパが釘を打っています。金槌で叩けばいいと知っていても,いざやってみると釘は曲がってしまって簡単には打ち込めません。「アレッ」と感じるはずです。どうしてうまくいかないの? 知るとできるの間にある見えない段差に気付くことが育ちのステップになります。

 「それ知ってる」。それだけでは十分ではないのです。自分のできる力にするためには,体験するという大切なプロセスを通らなければなりません。このことによって現実感が育まれ,もう一人の自分の肥大化,つまり何でもできるつもりになるという過誤が矯正されることになります。遊んでいるときにうまくできなくて癇癪を起こすことがあります。それでいいのです。現実は立ちはだかってくるものと納得する試練になります。できたときには,「できたね」と笑顔の贈り物を忘れないでください。


 ○自分探し,自分らしさ,そんな言葉が聞かれますが,若者は自分を持てないでいるようです。自分を持つという育ちが欠けていたことを教えてくれています。物事の考え方が単純になっています。言い換えると,考えることが面倒という手抜きに染まっています。自分の姿を見るのに鏡に向かうように,自分を知るためには他者に対することが不可欠です。手抜きをして自分だけ見ているから見えません。どのような関係を結べるか,手間を掛けて見つける自分探しが次の課題になります。

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