*** 子育ち12章 ***
 

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「第 24-08 章」


『子育ちは ドウゾの声に 力出し』


 ■子育て一言メモ■
『この世に客に来たと思え!』

 皆さんは法律の勉強をしたことがありますか? 社会生活上で「してはいけないこと」が書いてある刑法の本など読んだことのある人は少ないでしょう。それなのにみんな平気で暮らしています。法律などは全く無縁なものとしていて,大丈夫ですか? 逆にいえば,どうして法律を知らなくてもさしたる支障もなく暮らせるのでしょう。もちろん,交通法規などは知らないと命の危険があるので,しっかり講習を受けましょう。

 一般に法による禁止事項は行動の赤信号です。他者に対する危害・損害をもたらすことになるので,犯せば罰せられます。ところが,普通には私たちは行動の黄色信号で停止をしています。「人に迷惑を掛けないように」という注意信号です。だから,ことさら法を知らなくても暮らしていけるのです。ですから,もしも人の迷惑が見えなくなったり無視したりしていると,そのときは法に触れてしまうまで踏み込みすぎるようになります。自分がされたくないことはしない,その自制が大事です。

 ところで,人に迷惑をかけないように暮らそうとしても,少しの迷惑はかけてしまうことがあります。そこで「済みません」と謝罪をしたり,「ありがとう」と感謝をします。多少の迷惑はお互い様という暮らしが営まれていきます。そこで子どもにも,「アリガトウは?」と,しっかりとしつけます。結果としてアリガトウと言える素直ないい子が育っていきます。ここまではいいのですが,次のしつけが疎かになっていることに気がつかれていないために,中途半端になっています。

 問題が二つ出てきます。一つは「迷惑を掛けなければ」という甘えです。知っている人の誰にも迷惑をかけていないという逃げ道を見つけてしまいます。その逃げ道はやがて迷惑を考えないわがまま道になります。バスのなかで騒ぐ子どもを放置する親も,人の迷惑に対する感度が鈍っています。マナーやエチケットという言葉が置き去りにされています。おそらくみんなのひんしゅくを買うことで,袋小路に迷い込み立ち往生することでしょう。もう一つについては次段でお話しします。

 冒頭の言葉は伊達政宗五常訓の一部です。自分を主人公と考えずに,この世に客としてやってきたと思えば,朝夕の食事がうまくなくても誉めて食べることができる。客の身であれば好き嫌いはいわないであろう。それくらいの気持ちで暮らせば,不平や不満もなく,心穏やかに暮らせるという勧めです。欲張るから不平や不満が出てきますし,十分でなければと相手に求めることから関係がこじれてきます。腹八分のような自制があれば,お互いに楽になるはずです。



【設問24-08:あなたのお子さんは,能力を生かそうとしていますか?】


 ○ありがとうの先走り?

 もう一つの問題については,例題を使って考えてみましょう。江戸時代に鼠小僧と呼ばれた盗人がいて,大名屋敷から金を盗み,貧乏な長屋の住人にばらまいていました。みんなよろこんで義賊とたたえていたそうです。弱い者の味方という意味で「義」の字が冠せられていますが,それでも窃盗ですから賊です。ところで,世の中は「ギブ・アンド・テイク」で動いています。でも鼠小僧はテイクした後にギブしている,「テイク・アンド・ギブ」と順序を逆にしているのが問題なのです。

 普通の泥棒はテイク(取る)するだけですが,鼠小僧は後からギブ(与える)しているので,義賊と呼ばれたのです。でもやはりテイクを先にする闇のルールに従っているので泥棒にかわりはありません。子どもたちの非行,例えば,万引き,自転車盗,恐喝,おやじ狩り,窃盗などは,いずれも盗ること,取ること,つまりテイクする行動です。闇のルールに従っています。実は,そのように育てられてきたと考えられます。どういうことでしょうか?

 その秘密は,鼠小僧が大金を盗んで帰る際に言い捨てたかもしれない「アリガトウ」という言葉にあります。アリガトウは最も美しい日本語だと言われています。しかし,この言葉は美しいが故に棘を潜めています。その棘は「受け取る(テイク)」ときの言葉だということです。子どもは親や周りの大人からあれこれ世話を受けて育ちます。その都度「アリガトウ」の言葉をしつけられ,結果として素直にテイクすることしか知らないままに育てられていきます。

 かつて,豊かさが実感できないという言い方がされたことがあります。欲しいものはおよそ手に入って,これ以上欲しいものがないのに,豊かである実感がわかないということのようでした。ものの豊かさは受け取る豊かさ,アリガトウという豊かさです。テイクには際限がないから当然です。大人も子どももアリガトウに縛られている世情は不健全です。だから豊かさは実感できません。テイクすることをしつけられた子どもは,手当たり次第に取ることに走って当然ですね。

 ・・・できた人とできる人との違いは,温かさの有無です。

 仕事をバリバリとこなしているできる人は,どこかしら冷ややかなイメージがあります。もちろんルールに則った上でのことであれば,とやかく言うことではありません。しかし,世間で時々持ち出されてくる「道義的に」という意味で気になることがあります。できる人は相手をやっつける,しかしできた人は相手も生かす,その違いは人としての温もりがあるかどうかです。能力は競争と密接に関わりますが,能力の使い方には気をつけておきたいものです。


 ○ママへのメッセージ!

 ※「どうぞ!」の優先!

 人間関係は二人の人から成ります。アリガトウは待っている言葉ですから,関係を作り出すことは不可能です。いきなりアリガトウはあり得ません。知らない他人どうしが狭い道で行き会ったとき,ドウゾと譲る人がいるから,アリガトウと関係が成立します。ギブアンドテイクを思い出してください。「ギブするときドウゾ」と言い,「テイクするときアリガトウ」となります。ドウゾの言葉に誘われてギブを先にすることで,人は和やかに関わっていくことができます。

 英語でプリーズとは,相手を喜ばせるという意味があります。ドウゾと相手に与えることが先です。これが表社会のルールなのです。自分ができることを相手にドウゾと提供すること,それが「能力を生かす」ということです。繰り返しますが,テイクするために用いられる力は,闇の力です。子どもには,アリガトウとドウゾをセットにして教え,ドウゾが先なんだとしつけなければなりません。ドウゾと言える子は非行と無縁になります。本当にいい子とは,ドウゾが使える子どもです。

 ドウゾという言葉は,優しく思いやりのある子どもにしつける魔法の言葉です。同時に,人に向けて自分から働きかけることができますから,自発性や積極性にもつながっていきます。モノの豊かさがアリガトウの豊かさなら,心の豊かさはドウゾの豊かさです。イギリスには「牛乳を飲む人よりも,届ける人が健康になる」という俚諺があるそうです。人にドウゾと行動することが,ひいては自分の幸せへの道になります。どちらの豊かさがお望みですか?

 子どもにドウゾをしつけることは難しくありません。ドウゾという立場に置いてやればいいのです。親や大人が子どものドウゾをひたすら待てばいいのです。子どもがたまにでも手伝ってくれたら,そのときを逃さず,「アリガトウ」と笑顔で言ってやるのです。注意してほしいのは,親が「しなさい」と命じてさせたら,アリガトウと言えないことです。アリガトウは待つ言葉であることを忘れないでください。子どもが持っている力を「ママに向けて使って!」と,受け取り手になってください。


 ○争いやもめ事,不平や不満は「テイク」を願うことから発生します。今年も子どもたちが親に向かって刃向かった事例が現れています。テイクしかしつけられていないと,弱い子どもは温もりのある関係が持てなくなり,一方で気持ちが殺伐としていきます。非行に落ち込んだ子どもは,親から「アリガトウ」と言ってもらったことがないと語ります。大人がアリガトウと言えば,子どもは自然にドウゾと言えて,その喜びを体験できます。ママが喜んでくれたということほど,子どもを優しい気持ちにさせることはありません。

 勉強への意欲や将来に対する期待という面で,日本の子どもたちは育ち落としがあると指摘されています。例えば,貧しい国の子どもたちは,今一生懸命に勉強し大きくなったら仕事をして,家族の暮らしを楽にしたいという願いを持っています。ドウゾを目指して育とうとする健気さがあります。今子どもたちは育とうとしているでしょうか? 大人になりたくないと思っている節があります。育とうという意欲はどうすれば持てるのか,それが次の課題になります。

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