*** 子育ち12章 ***
 

Welcome to Bear's Home-Page
「第 24-09 章」


『子育ちは 弱さがあって 強さ追う』


 ■子育て一言メモ■
『明日,何を為すべきか分からぬ人は不幸である!』

 人の一生は弱い赤ちゃんにはじまり,年老いて弱くなって終わります。一方で,社会生活は強くなければ務まらないというのが一般的なイメージです。ですから,子どもは学校に,お年寄りは施設にと,ちょっと脇にどけておくようになります。お金もさることながら手が掛かるから子どもは要らないという気分に流されて,子どもは激減し孤独を押しつけられ,他方で長寿社会になって年寄りが増えて大変だという声をお年寄りは肩身の狭い思いで聞いています。

 弱い者が気兼ねをしないで生きていける社会が心豊かな社会ですが,実際には心貧しい社会ができようとしています。それが子育てに反映してきて,子どもを育てなくしています。弱くてはいけない,弱さをマイナス価値と断罪する非情さの前では,子どもはひとたまりもありません。自衛手段として,子どもは自分の弱さを否定して自惚れてしまい幼児のままで育ちを停止したり,弱さを拒否して自暴自棄になり社会に反逆しています。弱かったら,生きていてはいけないのでしょうか?

 自分の弱さから目を背けたら,人の弱さが見えなくなり,暴君になります。優しさは自分の弱さを知っているからこそ発揮できます。弱いからこそ弱い者同士で社会を営んで生きてきたのがヒト社会です。自分が弱いと自覚してはじめて,育ちへの意欲も生まれます。自分は強い大人だと思ったときに,成長は止まります。未熟さを容認することが自己実現のスタートラインです。ソクラテスの語った自分の無知を知れという言葉も,考え方では同じ意味です。

 「自分は今弱いんだ」ということを容認した上で,助け助けられる人との関係に込められている温かさを感じ取り,弱くてもできることがあると思うことによって自らの存在価値を実感し,明日になったらもっといいことがあるという期待を持つことから,生きる喜びや意欲が生まれてきます。明日を楽しみにするためには,明日に向けてすることが見つかっていなければなりません。もうすることが無くなった,そんな状況では明日への扉を自分で閉めてしまうことになります。

 冒頭の言葉はゴーリキーに拠ります。何もかも揃っていないと気が済まない,それはいいのですが,揃ってしまったらその先は目的を失います。豊かさの中で人が意欲を失うのは不思議なことではないのです。子どもが大人にはなりたくないと思うとしたら,それは自分の将来を拒否することであり,育ちを停止しようとするでしょう。逆転しなければなりません。「なぜ育つのか?」という第五の問に対して,「明日が楽しみであるから」と答えておきます。



【設問24-09:あなたのお子さんは,弱さを認めようとしていますか?】


 ○弱さは明日に向かう条件?

 それほど遠くない過去には,いじめを受けて自らの命を絶つ子どもたちがいました。いじめという暗闇から脱出するためには,自分を消すしかないと思うように追い詰められたのでしょう。一方で,たとえいじめられても死の直前ぎりぎりのところで思いとどまっている子どもがたくさんいるはずです。いじめられたらみんながみんな自殺するわけではないのです。何があっても生き続けようとする気持ちを持っているからです。共に弱いのに,明日が無いか有るかが分かれ目です。

 親は子どもに「生きる力」を持たせようと育てています。生きる力? それはどういうことでしょうか? それはこの羅針盤の最終テーマですが,今の局面で言えば,生きる目的,あるいは生きる喜びを持たせてやることです。生きる喜びが悩みに勝っている限り,死は決して選ばれることはありません。もう一人の自分が生きる喜びを抱き,自分の持っている生きる力を発揮しようとするとき,もう一人の自分は自分を生かし続けます。

 最近は子どもたちの脱出法が変わってきました。追い詰められると過激な反撃に突き進みます。例えば,火をつけて燃やしてしまうという単純で凶悪な手口を学習したようです。少し昔にもネクラな姉がネアカな妹を刺した事件がありました。姉はネクラでは生きられないと周りから言われ続けていました。自分がネクラに見えるのはそばにネアカな妹がいるからと思いこみ,妹さえいなくなればと追いつめられていきました。自分の存在を脅かす妹を消すことで,圧迫を回避しようとしたのです。

 ネクラとは相対的なもので,たとえネアカであってももっとネアカな者のそばに行けば,ネクラに見えてしまいます。それよりも,ネクラであってはいけないのでしょうか? 人に可愛がられないとか,人との関係が結びにくいといった心配があるのでしょうが,それほど気に病むほどのことではありません。人の弱さを責めるのはルールのある競技の世界ならいざ知らず,暮らしの中では卑怯なことです。ネクラであっても,弱くてもいいんだと,徹底的に認めてやるのが子育てです。

 ・・・我慢と諦めとの違いは,明日に向かおうとする気持ちの有無です。

 教室の前に「明るく元気な子」と大書してあります。ネクラで弱い子は毎日それをどんな思いで見ているのでしょうか? 明るく元気でない子は仲間ではないといった雰囲気がある中で,登校する気持ちに水を差されていきます。保健室なら登校できます。そこは弱い子だから温かく迎えてくれる場所だからです。大切なことは,育ちは今も進んでいて,明日に向かっているという自覚です。今は幼くていい,やがて成長していくから! 赤ちゃんのときのママの気持ちを忘れないでください。


 ○ママへのメッセージ!

 ※弱さと強さは両立する!

 班学習で担当分ができなかったとき,みんなが迷惑すると責められます。自分のことは責任を持ちなさいというわけです。みんなが決めたことが絶対的な束縛になって締め付けてきます。その息苦しさから,学校への道は遠のいていきます。班学習とは各自が単に公平に分担するということではなくて,班全体として何事かをやり遂げる協力が目的です。得手不得手のある仲間が集まってお互いをカバーし合うということです。

 自分のことは自分ですべきという束縛が強すぎると,何でも自分でできなければならなくなります。みんな同じに育つということは,個性を殺すことです。一人ひとりが持ち味を出すことが個性なら,そこには得手不得手や,強さ弱さが必然として現れるはずです。弱い人がいるからこそ,個性を発揮できる場が用意されます。お互い様という関係です。同じであることは,弱さを負の価値に追いつめてしまいます。

 少子化になると子どもには兄弟や姉妹がいなくなります。きょうだいも三人以上でないと集団としての育ちができません。二人だとケンカした場合,互いにそっぽを向いていれば済みます。三人以上だと,三人目が仲を取り持とうとして,収まるようになります。兄や姉が弟妹たちを「いい加減にしたら」となだめる役を果たすように育ちます。昔の多子時代には,クラスの3割程度が家では兄姉でした。悪ふざけがあっても,「その辺でいいだろう」という兄姉としての仲裁をし,他の兄姉も同調するので,いじめになる前でやめさせることができていました。

 子ども集団の基本はきょうだい関係です。弟がお兄ちゃんについて回って,よその子との縦関係が結ばれていきます。今はきょうだいがいないから,縦関係の持ち方を知りません。縦の関係を持つことの重要さは,弱いものとのつきあい方を学ぶことです。弟や妹がついてくると,それなりにかばってやらなければなりませんし,遊びでもハンディを与えなければなりません。免除したり,肩代わりをしてやったり,いろんなやり方を考えます。この縦関係を通して,子どもは年上の子に比べて自分が弱いことを知り,年下の子に対しては強いことを自然に納得します。弱くてもそれなりにつきあっていけること,強いものが弱いものをかばってやらねばならない優しさを身につけていきます。


 ○耐性の不足,キレてしまう暴発,パトカーに追われて激突死,邪魔になって抹消,世情に見受けられる気になることを並べていくと,そこに一つの失われたものが浮き上がってきます。それは長い目で見るという余裕です。我慢すればいつかは逆転する,小さな過ちの内に止まれば次には取り返しができる,少し離れて時を待つ,といった先のことを見越した判断ができなくなっています。過去から現在,それはさらに将来につながっているという生き続ける意志を持つことが次の課題になります。

「子育ち12章」:インデックスに進みます
「子育ち12章」:第24-08章に戻ります
「子育ち12章」:第24-10章に進みます