*** 子育ち12章 ***
 

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「第 24-12 章」


『子育ちは 失敗越えた 道の先』


 ■子育て一言メモ■
『勤勉は幸運の母である!』

 勤勉であることは美徳でした。勤勉であると,貧乏暇無しとか,器用貧乏とか,時として割を食うことがあります。そのことを過大に受け止めているのか,真面目であることが格好良くないし,損を被るといった風潮が若い世代にあります。集団で仕事をしていると,勤勉な人とそうでない人に分かれます。集団生活に関して「2・8の法則」があると言われます。アリを観察すると,2割のアリが勤勉で,残りの8割はただウロウロしているだけだそうです。

 園児達を観察したテレビ番組がありました。先生に遊び道具を片付けるように言われた園児達は,いっせいに取りかかりましたが,しばらくすると2割の子が勤勉に,残りは遊び出してしまいました。そこで,先生がその2割の子を別の用事で連れ出すと,遊んでいた8割の子の中から2割の子が片づけをはじめだしました。集団では「私がしなくても」という思いが勤勉さに水を差します。少しでも楽をしたいという誰でも持っている弱さだから,それを抑え込んだ勤勉さが美しかったのです。

 ミツバチは勤勉に密を集めます。オーストラリアに行った日本人が花いっぱいの大地を見て,養蜂を思い立ちました。初年はうまくいきましたが,次の年から失敗しました。ミツバチが密を集めなくなったのです。あれこれ悩んだ末に見つけた原因は,一年中花が咲いているという環境があることでした。いつでも花が咲いているから,蜂は苦労して密を集める必要が無くなったのです。

 豊かな社会は勤勉である必要性を奪ってしまいました。いつでも簡単に好きなだけ必要なものが手に入るからです。勤勉さや真面目さをあざ笑っている若者世代は豊かさの落とし子であり,それが時代の求めてきたことだとしたら,大人にそろそろ反省が出てもよい頃です。子どもには苦労をさせたくないと庇えば庇うほど,子どもは生きる性根の虫歯を増やしていきます。歯を食いしばって真面目にがんばろうとしたとき,若者らしい挑戦が蘇るはずです。

 冒頭の言葉は,セルバンテスに拠ります。集団生活は自分の楽を割引いた人によって支えられています。「自分がしなくて誰がする」と考えた人が社会を引っ張って来ました。勤勉さが失われたら,社会の根底はボロボロになるでしょう。豊かな時代だから勤勉は要らないと思えば,豊かな社会を支えている人がいなくなります。どんな状況になっても2割の勤勉な人が現れてくるから心配ないという安易な人任せは期待できなくなっています。



【設問24-12:あなたのお子さんは,学びに喜びを見つけていますか?】


 ○ダメで元々?

 ものを考えるとは,最も簡単に言えば,「こうすればこうなる」という因果関係を見つけることです。ゲームがおもしろいのは,「こうしたらこうなるのでは?」と推察してやってみたら,「思った通りになった」時に予想的中の成功感があるからです。自分の考えが現実に証明された喜びを,人は感じることが出来ます。これが学びから生まれる快感です。「解けた」,「分かった」,その体験をすることが学びへの誘いです。

 ところで,人は森羅万象を読み解けるほどの知力は持ち合わせていません。考えて分かることはごく一部です。「こうだとするとこうなりそうだ」という程度までしか分かりません。そこで,確率という経験則をとりあえずの道具として考案しました。例えば,天気予報です。さらに,「こうだから,こうなるかもしれない」というように,ほとんど分からないこともたくさんあります。例えば,Jリーグや日本シリーズの予想です。やってみなければ分かりません。

 選択を迫られる場合には,結果を確かな程度に予測できないと,迷い,悩み,不安になります。人が何事かをしようとするときに考える道筋には,二筋があります。一つは結果として身に危険が及ぶ可能性が少しでもあると予測できるなら,安全のために回避するか中止する道です。人は生来臆病ですから,こちらの道を選ぶことが多くなります。例えば,廊下を走ったら自分や他人に危険だから,止めるといったことです。

 もう一つはよい結果が出るかもしれないと期待できるなら,多少のリスクは覚悟してやってみようとする道です。夢の可能性に向かって走るときの熱い思いが不安を吹き飛ばします。古いお話ですが,未開の地に暮らす人に靴を売り込もうとするとき,「誰も靴を履いていないから売れない」とあきらめるか,「誰も履いていないから売れる」と考えるか,二つの選択があります。可能性を見つけることが考えることだというたとえ話です。考える力を生かすためには,可能性を見つけようとすべきです。

 ・・・可能と困難との違いは,前向きな考察の有無です。

 「前向きに考える」という言い方は行政的な言い回しかもしれませんが,本来はよい結果に向けて行動しようとする覚悟のはずです。例えば,協議の場で提案されたことに対して,「あれがない,これがないから無理だ」という意見が山のように出てくるのが普通です。何も考えていないのです。考えるのは,「どうすれば達成できるか」ということだからです。できない理由は考えるまでもなく,また意味もありません。できる手立てをひねり出すのが考えるという知力なのです。


 ○ママへのメッセージ!

 ※小さな挑戦でいいんです!

 失敗をしでかしたら,次は「どうして?」と「反省」をするはずです。もしママが失敗を叱ったら,子どもは不快になり,反省をしなくなります。もう一人の子どもの出番を奪います。叱ってはいけないという意味はここにあります。失敗を気にしなくていいと励ますことで,もう一人の子どもは心おきなく反省することができます。反省とは,もう一人の自分が自分を振り返り,自分の力を見極めて未熟な自分を自覚できます。実力を見定めることができたら,次のステップに進みます。

 自分の失敗の原因を知りたいと思いますが,うまくできていないのですから分かりません。どこで間違えたのかは,正解と比べないかぎり分かりません。何かの行動であれば上手にこなしている他の人を見習うことで,自分の間違いが見えてきます。人がしていることをまねること,それが学びです。マネル=マネブ=マナブと,変化してきたのです。学ぶとは「こうすればいいのかな」とできる人をもう一人の自分が見て真似をすることです。言葉で説明しても子どもには分かりません。

 学習しただけでは,まだ十分とは言えないのでは? その通りです。自分がやってみて,成功しなければなりません。成功すれば,できる自分に育ったことになります。つまり,もう一人の自分が自分に,もう一度やってみようと「挑戦」させるステップが残されています。この挑戦ですが,「スモールステップ(小さな一歩)」であることが大事です。「それだったら自分にもできるかもしれない」と見切りができることです。できそうもないことに挑むのは無茶・無謀・無駄・無理なことです。

 跳び箱は跳べないと思っていたら跳べませんし,無理に跳ぼうとしても手が最後の瞬間にブレーキを掛けます。「みんなも跳んでいるんだから,あなたも跳べるはず。思い切って跳んでごらん」と指導されます。しかし,どうすればうまくいくのか何の思案のないままでは,やはり「跳べるかも」とは思えません。跳び箱の先端部分に印を付けて,「ここに手をつくようにしてごらん」と指導すれば,今までと違った新しいやり方とはっきり分かるので,挑戦してみようという気になれます。


 ○少年補導を担当している警察職員の方のお話を聞く機会がありました。その中で大人が心得ておくことの第一にあげられたことは,「今の子どもは叱られ慣れをしていない」ということでした。特に知らない人からの注意に対しては,どう対応していいのか分からないのでパニックに陥るようです。自分のためを思ってくれているという深いところでの信頼感が培われていないのでしょう。温かな人間関係を作り上げる中で自分が大切にされるという社会観が,次の課題になります。

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