*** 子育ち12章 ***
 

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「第 29-02 章」


『子育ちは 人は同じと 信じ合い』


 ■子育ち12支援■
『子育ちの第2支援』

 子どもは自分勝手です。生きるということは自己主張と重なるので,認めてやるのが本筋です。子どもの主張は喜怒哀楽が主体であり,個人的です。ところが,生活は自分一人では営めないので,共同になります。保護されているという立場による抑制もあります。自分の思い通りにはならないことがたくさん出てきます。周りの人と折り合いをつけることが求められます。自分と他者という対等な関係を認めることで,社会性への芽生えが始まります。

 大人は子どもを子どもとして区別しているつもりです。でも,子どもの方は大人と比較され差別されていると感じます。区別と比較の違いをきちんと意識しておきましょう。区別とはありのままの違いを認めて受け入れることです。子どもたちを前にするときは,個性を見る物差しでもあります。ところで,我が子可愛さという気持ちが絡むと,比較するようになっていきます。優劣や勝敗という価値尺度が色濃くなります。育ちに競争が紛れ込んでくると,苦しくなります。

 最近個人情報の保護のために,名前を伏せることが当たり前になってきました。駐輪場には,無記名の自転車ばかりです。悪意の目から逃れるための自衛行動です。名前は自分を他人と区別する基本です。それを伏せると自分を消すことになります。名前をきっちりと表示するのは,自己主張の基本的な形です。匿名の中に逃げ込むのは守りの姿勢になります。生き方の指針として,名を上げる,名に恥じない,名を大切にといった心構えを持たせないと,陰が薄くなります。

 子どもは幾つかの顔を使い分けています。親,先生,友だちに向ける顔は違っています。相手によって関係の在り方を決める価値尺度が違うためです。自我のあり方が複雑になるので,やがて「自分は何か?」に悩むようになります。顔と顔の間にジレンマが発生すると,悩み,不安にとらわれます。先生は先生面,親は親父面と役割しか見せず,子どもも役割面を強制されます。建て前を剥ぐと,先生,親も只の人? なぜそれを隠そうとするのでしょう。どこかで裸にならねば,しんど過ぎます。

 アイヌの人の精神世界では,神も人間も一つの大きな輪の中にいると考えているそうです。それがこの世の中であり,その中で暮らしていると考えているというのです。自然との関わりについても,あくまでも共存であり尊重であって,支配や破壊の考え方は全くありません。自他を認識し調和を重んじると,自分を軸にせず他者の中に自分を据えて考えることができます。生きる場面で比較をすることが必要な局面はありますが,人に対する比較は有害でしかありません。



【指針29-02:区別するつもりで比較していませんか?】


 ■子育ち支援メモ■
『人は対等でなければ』

 かつて3K嫌いという評価傾向が若者にありました。キツイ,キタナイ,キケンな職種を忌避するというものでした。3Kは,手を使用する世界に特有なものです。手の世界は自分の現実世界です。もう一人の自分が現実の自分を確認できる大事な手がかりです。自分を知らないと,もう一人の自分が観念的に先走りをし,現実とのギャップに遭遇し,ストレスを感じます。手を喜んで使っている人である音楽家,彫刻家などが長生きなのは,自分らしく生きているためかもしれません。

 自立が順調に進むためには,他者を比較ではなく対等に受け入れられるかどうかがポイントになります。自分の思い込み以外をどれだけ認められるかということです。自分の意のままにならない状況をもたらす他者の存在という自覚ができるとき,人の器量は大きく広がることになります。人は皆同じという意識が確立しなければ,社会で自分を生かすことができません。例えば,順序を守ることが自然にできるといった態度は,自分を他者と対等と見なす気持ちから生じているのです。

 不登校に陥る児童・生徒がいます。学校に行けなくなるというものですが,もう一人の自分がブレーキを掛けています。もう一人の自分が,自分を再確認したい,自分は何をしたいのか,と立ち止まっています。もう一人の自分が自分をどう引き出せばよいのか迷っています。学校とは?,友だちとは?,あるいは家族とは?,といった自分と他者・環境との関係に比較ではない道筋が見つからないのです。自他の対等な関係の確信,それは自分の歩む道標であると考えておかなければなりません。

 ユーモアとは,突詰めれば自分を対象化する精神が見せてくれるものといわれます。もう一人の自分が自分を冷静に見つめてくれる精神の働きです。ところで,いじめられている子どもが明るくひょうきんであったということがあります。そのために,いじめている側がふざけているという気持ちしか持てなかったということになります。友達であろうとすれば,自分を卑下することになっても,いじめをひょうきんさで受け止めるしかなくなります。劣情に迎合する自分,つらかったでしょう。

 目に見える能力を優劣という評価尺度で見ることは,競争社会では普通のことです。しかしながら,その能力の優劣を迂闊に人の優劣に置き換えるのはとても危険なことです。人間観を誤ることになるからです。経済的な弱者に見えるホームレスの人を無価値な人と思いこんで憂さ晴らしの標的してしまう凶暴さを引き出します。差別やいじめは偏見から生まれますが,偏見とは人を評価という目で見ることです。評価価値は人の存在に向けるものではないということ,大事なことです。



 便利さいっぱいの文明世界に暮らしていると,生き物としての感覚を失いがちになります。味覚という生きるための感覚も,美味しさという片寄った味覚に変質し,結果としてメタボリックに突き進んでいきます。生きているという感覚は,子どもの育ちには不可欠なものですが,環境はかなり機械的なものになっています。「こうすればこうなる」という単純な発想が子どもに対して向けられているようです。育てるのではなく,育つのをゆっくりと待つ,その認識が必要です。

 昔は家の跡継ぎという子どもへの期待が,男子誕生を喜ぶ雰囲気を漂わせていました。今は,家制度の衰退により呪縛が解け,一方で母親の願いから女子誕生を喜ぶ雰囲気に変わっているという指摘があります。母親は同性である女子を求めているというのです。男子のことが分からないので子育てに不安があるということに加えて,男子は長じると親元を離れていきますが,女子はいつまでも親とつながっているという期待があるというのです。どうなのでしょうか?


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