*** 子育ち12章 ***
 

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「第 29-03 章」


『子育ちは 守られている 安心で』


 ■子育ち12支援■
『子育ちの第3支援』

 子どもはあらゆることが0からの出発です。何をする知恵も能力もありません。育ちの中で獲得しなければなりません。ちゃんと出来ないし,危なっかしくて,見ているとハラハラすることばかりです。世話をしてやらなければなりません。その幼い子どもの姿が刷り込まれるので,親はどうしても子どもを未熟というマイナスの目で見るようになります。でも,子どもは必要なことを何とかこなせるように着実に育っていきます。今は出来なくて当たり前,だから育ちがあるのです。

 大人は子どもを見守っているつもりです。でも,子どもの方は見張られていると感じています。見守ると見張るの違いをきちんと弁えておきましょう。見守るとは子どもの味方であるという姿勢を表明することです。子どもがする不始末をフォローしてやるという覚悟が要ります。ところで,子どもの至らなさや不始末は親には面倒で厄介なものです。ついつい叱ったり責めたりしたくなります。そのときの親の目は見張る目に変わっています。

 最近は全く姿を見なくなった地域の怖いおじさん,子どもは何となく見張られているような気分でした。四六時中側にいるわけではありませんが,同じ悪さをしようとすると思い出されて二の足を踏むような強いインパクトがありました。それでも,おじさんは決して子どもを追い詰めることはしません。コラッと怒鳴りつけても,深い追いせずに逃がしてやっていました。よほどの悪さや危険でなければ大目に見て見逃してもいました。怖いけれども不思議に安心感がありました。

 人は疲れたときにイライラして余裕をなくすものです。ほんの些細なことが大きく見えてしまいます。親は疲れたときこそ優しくなる努力を心がけなければ,子どもを見る目が過敏になります。子どもには尖った目に見えるはずです。逆に,子どもが疲れていたらまず休ませることです。疲労は何も受付させないので,投げやりになります。学校で神経を使い,家でホッとしたいのに,「勉強は?」と急かされ,まるで家庭が学校の下請けになると,息苦しいことでしょう。

 家を留守にするとき,子どもにお土産を買って帰ります。お土産を見つけて大喜びする子どもを見て,親の喜びを感じます。そのお土産が,数日すると放り出されています。折角買ってきたのに! 大事に扱わないことに眉をひそめます。なぜ子どもはお土産を喜ぶのでしょうか? お土産を買うときは子どもを思い出しています。自分のことを思い出して呉れた証拠だから,子どもはうれしいのです。実際の物は何でも良い,買ってきてくれた,そのことが何よりもうれしいのです。



【指針29-03:見守るつもりで見張ってはいませんか?】


 ■子育ち支援メモ■
『守られている実感を』

 ビデオやディジカメといった撮影機器が手軽に利用できるので,子どもの成長記録は豊かになったことでしょう。アルバムの冊数が増えていきますが,幼い頃は多くの写真が,でも成長と共に減少していくのが普通です。幼い子どもを可愛いと見守るカメラの目が,成長とともにしつけの責任という厳しい目に変わっていき,今の育ちよりも先の育ちを見ようとしているためでしょう。このままでは先が思いやられる? 子育ちの目が見守り,子育ての目が見張り。

 昔に比べると,転職する若者が多いようです。その理由は「周りに理解してくれる人がいなかったから」が多いそうです。逆の立場から言えば,辞められた理由は存在感を与えなかったことです。例えば,「君はこの会社に必要な人」という認知のメッセージを発していなかったのです。厳しい指導のつもりであれこれ欠点を正そうとしているのでしょうが,その前に見守っているという信頼感が必要です。理解するとは人としての見守りの目なのです。

 子育てがママにだけ委託されていると,母子密着から始まる子育てが次のステップに自然に移行しにくくなります。父親の役割である子どもの母親離れを母親自身がしつけという責任から果たさなければなりません。母親離れの後,子どもはまだ不安を抱えています。適度なスキンシップによる安心を与えてやらなければなりません。一旦離れることで,母親との結び付きが温かく自覚できるという定着過程が必要なのです。厳父慈母ではなく,不在父厳母では母子ともにつらくなります。

 学校で班学習をします。「宿題をやってこない」子どもは,連帯責任から班全体が困ると責めたてられます。学校に行きたがらなくなります。皆で決めたことが至上命令となり逆らえないのです。多少のことは許し合うという余裕をもたなければ,支え合う関係は育ちません。皆に迷惑を掛けてしまった,そういう自覚が出来るときに,次はちゃんとしてこようという気持ちになります。責めるのではなく支え合うのが学校としての教育目的です。見守るとは仲間を守ることです。

 虚弱な高一の娘さんが中学のときに薬を服用しており,その副作用で茶色の髪になりました。校則違反ということで「何とかなるまで学校に来るな」と言われました。本人の意図したことではありません。その娘さんは荒れて不良化し高校退学,家庭では小学一年生の弟に乱暴をし始めました。見張りの目は排除の方に向きます。見張られたということは信頼を拒否されたことですから,自棄になるようにし向けられます。負の子育てになります。



 「もし,よその家に生まれていたら,自分の人生は今とは違っていたかも?」。そんなことをフッと思うことがあるかもしれません。子どもは産まれる家を選ぶことは出来ません。親は産みたいと願って待っていた子どもです。「うちに産まれて,損したなあ!」って,子どもに思わせまいとして甘やかすと,「うちに産まれて良かったなあ!」と思わせられなくなります。親子は損得ではなくて,愛情で結ばれているのですから。

 母という字は,添寝して乳を飲ませている姿を表します。おっぱいの絵文字なのです。中の点々が大事なのでノの字に略してはいけません。子どもを産んで母になりますが,子どもを育てて母であることになります。産みの母から育ての母に進化するのですが,母であることを忘れてはいけません。神様があなたにこの子を預けたら,きっと幸せに育ててくれると託したのです。神のお墨付きがあるのですから大丈夫です。そう考えてみませんか?

2007年10月04日の教育のまぐまぐ「Pickup!教育のヒント」のコーナーで,第362号が教育関連メルマガの中から,編集部オススメの記事の3つの中の1つとして紹介を受けました。


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