*** 子育ち12章 ***
 

Welcome to Bear's Home-Page
「第 29-04 章」


『子育ちは 世話の手離れ 人の中』


 ■子育ち12支援■
『子育ちの第4支援』

 子どもが育ちの芽を出すことが出来るのは,ここで思いっきり育つことが出来ると安心する居場所です。最も初期には母親の懐であり,家庭であり,馴染みのある地域の関係を確信できる場です。ここにいていいのだろうかという不安があれば,育ちを止めるだけではなく,育ちの意欲さえも失っていきます。子どもの育ちを望んでいる人の中で,子どもは育つことが出来ます。人間関係という根っこが伸びていかなければ,子どもは育てないのです。

 大人は子どもを世話しているつもりです。でも,子どもの方は阻害されているのではと感じています。世話は必要なことですが,いきすぎると阻害につながるので,運用を間違えないようにしなければなりません。世話とは子どもが育つことができるように支えてやることです。可愛いからとあれやこれや親が世話を焼きすぎると,子どもは自分の育ちが楽しみにされているのだろうかと心配になります。そんなときに,反抗するようになります。

 親は保護者と呼ばれているうちに「世話せねば!」という気持ちが生まれてきます。その使命感がやがて重荷になってきて,子どもは居ない方が良いと思ってしまうこともあります。子どもが園や学校に行くようになると,「やっと手が掛からなくなった」と安堵します。そのとき,子どもが足手まといであったという陰のメッセージが子どもに伝わっていきます。登園や登校を渋るようになることもあります。見放されるのではと恐れるからです。

 同じ年頃の子ども集団の中で遊べない子どもがいます。親,兄姉,大人といった分ってくれる間柄の中で手厚い世話を受けて育っていると,自己表現をしなくても済んでいます。自己表現の技術が育っていないのです。自己表現とは相手に受入れられる形でなくてはなりません。他人の考え方や気持の動きは言葉や行動に現れますが,それが読取れないために孤立化していきます。ほとんどの場合,子ども同士での「摩擦と解消」をしばらく経験することで学び取っていきます。

 家に帰ってくればホッとします。皆が揃って居間で寛ぎます。ファミリールームには大きなテーブルがあり,家族がめいめいに読書をしたり,新聞を読んだり,時には語らったりします。周りの家族の気配を絶えず感じている,それがコミュニケーションのプラットフォームです。家の間取りについては,母の「ご飯ですよ」の声が家族全員に聞えるようであれば理想です。でも,子どものためを思って,子どもは子ども部屋に隔離されていきます。寂しい居場所に閉じこめていませんか?



【指針29-04:世話するつもりで阻害していませんか?】


 ■子育ち支援メモ■
『控えめな世話を』

 父親は忙しさに飲み込まれて子どもを構わなかったり,日頃の無沙汰を埋め合わそうとして子どもを甘やかします。子育てを担っている母親と養育観・態度について衝突することもあるでしょう。父親は子どもを養うためにと会社人間にならざるを得ません。男の子は父親の胸に顔を埋めて泣きじゃくりたい時もあります。ある父親が癌の宣告で入院しましたが,子どもは会社が忙しいと見舞いにも来ません。孤独に死を迎えます。忙しくても子どもを構う暇は作ろうとすればあるはずです。

 同年代の子どものいる隣人とはつきあいがありますが,そうではないと隣人といっても子どもが迷惑を掛けるかもしれないと遠慮がちになります。世話にはならないという自負があるかもしれません。子どもにとってはどうでしょう。顔見知りの大人です,でもよその人です。子どもなりに甘えにブレーキをかけます。抑制の使い始めです。地域の大人は口やかましくはないが厳しいので,人間関係の徐行や一時停止など,間合いの取り方を学びます。地域の人による大事な子育てです。

 世話する人にはいくらかの犠牲が伴う場合があります。「私だけがちょっと我慢すれば,皆が幸せになれる」。たまにはいいのですが,いつもそうしてはいけません。家族全体のために誰か一人が犠牲になる,例えば,家事を引受ける妻,日曜サービスの夫などです。家族の誰かが不幸であれば,残りの人たちが幸せになれるわけがありません。家族の全員が幸せであって自分も幸せになる,家族とはそういうものです。日頃から自分の希望を伝え,それぞれの希望を皆で聞くようにしましょう。

 自由な世界ではネットワークがあちこちに広がっていきます。必然的にややこしい人間関係も増えることになります。もし厄介なことを避けたかったら自由は無理ということです。家庭で快適な世話を受けて,自分の部屋で好きに過ごしているというのは,必ずしも自由ではありません。受け皿の人としか付き合いたがらないというのは孤独なのです。関係の中の存在は「わざわざ」という気苦労のある関係の上にあります。世話に頼るようになると,わざわざという行為ができなくなります。

 親は我が子の世話をするのが普通です。そこに落とし穴があります。見えない子どもがいるのです。問題が潜んでいるのに親が気がつかないことがあります。子どもを見る物差がないのです。「こんなこともできない!」と大人の目で判断したりします。子ども像を獲得するには,よその子を含めた「子どもたち」を視野に入れる必要があります。同年齢でもばらつきがあり,異年齢の子から成長の程度という点も見えてきます。問題も見えて来るようになります。



 「誰の為に苦労をしていると思っているの!」。親の苦労も知らずに勝手なことをする子どもに,つい口走ってしまいます。でも,その言葉は,子どもには「あなたが重荷である」,「あなたが居るばかりに苦労している」と聞こえます。だから,「そんなこと頼んでいない!」と跳ね返されます。受け取りたくないのです。世話の押しつけを,子どもは受け止めようがありません。困ってしまいます。自分の育ちで手一杯なのですから。

 親の教育力とは,家庭の教育力を十分に発揮させることをいいます。家庭が家庭としての機能を発揮することです。例えば,家をまとめるのは母親,家を動かすのは父親といった形が出来ていればいいでしょう。もちろん,お互いに押しつけ合うのではなく,引き受けるという了解が不可欠です。家のことは母親任せというのは,家庭の機能不全を招きます。健全な子育ては健全な家庭から。古めかしい言いようですが,大事なことは受け継がなければならないのです。


「子育ち12章」:インデックスに進みます
「子育ち12章」:第29-03章に戻ります
「子育ち12章」:第29-05章に進みます