*** 子育ち12章 ***
 

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「第 29-07 章」


『子育ちは できる力を 発揮して』


 ■子育ち12支援■
『子育ちの第7支援』

 甘いものを食べると,空腹感が鈍って,もう要らないという状況になります。必要な食事が不足していきます。育ちにも同じことが起こります。ルソーが,子どもをダメにするには甘やかせばいいと書いていますが,昔に比べて格段に豊かな暮らしの中では甘やかすつもりが無くても甘やかす傾向が出てきます。可愛がるのはいいのですが,それが甘やかしになると,自分でできるようになるための育ちはもういいと思わせることになります。育ちの機会を逃してしまいます。

 育ちの機会とは,どういうことでしょう? かつてハングリー精神ということが言われていました。あるいは,貧しい国の子どもに成長への希求が強く現れることも知られています。簡単に言えば,現状に満足できないという渇望感が,育ちたいという思いを燃え上がらせるのです。自分にとって必要なことができる力を持ちたいという願いがあれば,育ちは促されます。自分にはできない弱さがあるといった,自分の実力に対するきちんとした見極めをする機会,それが育ちの機会です。

 中学の部活動では,試合に臨む機会があります。あっさりと負けることもあるでしょう。例えば室内競技の場合,相手校の体育館は大きく充実していて十分な練習ができるのに,自分たちの体育館は狭い上に他競技と交代であり,満足に練習ができないから負けて当たり前と考える生徒がいます。それなら,体育館の大きさで試合をすればよくなります。体育館のせいにしている限り,自分の弱さを見ずに逃げていることになります。体育館に負けていては,力の育ちは覚束ないでしょう。

 「魚を売っている所は?」というテストがありました。「野菜を売っている所?,鉛筆を売っている所?」と続きます。すべてに「スーパー」と答えてバツになりました。「洗濯ものは乾いたらすぐ取込む,○か×か?」に×と答えてバツでした。ママはいつまでも干しているからです。学校の常識は世間では通用しないことがありますが,それをあげつらっても仕方がありません。真理が何かを教えることが学校の役割であり,世間の方が間違っているかも,なぜ違うのかを考えるのが,大事です。

 力とは何かが多い所から少ない所に向けて発生します。身につまされることの多い金の力は,金の有る所から無い所に向かって現れます。だから,金持ちは金を適正に使ってこそ存在意味があり,使わなければただのケチになります。知力も自分を高めるためであれば,知の守銭奴です。知恵は流通させてこそ意味があるのです。学力も人に教えるというプロセスを経て,はじめて自分のものになります。競争手段として自分の為に使う,それは力とは言えないのです。本当の力を教えてください。



【指針29-07:機会を与えないで介入していませんか?】


 ■子育ち支援メモ■
『できることをきちんと』

 ダーティハリーが,不愉快なゲームをしている男に向かって,「ゲームを楽しみたけりゃ,ルールを勉強するんだな」と静かに語りかけます。ゲームだけではなく世間のあらゆる所にルールがあり,その中でのみ自由が与えられています。そのルールに対する厳しさが曖昧になってくると,不祥事になります。信頼はお互いにルールを守っているという前提の上で成り立ちます。ちょっとぐらいいいだろう,そのゆるみが窃盗である万引きを誘発していきます。ルールを弁える力は大事です。

 結婚生活とは食卓の美味しい食事を楽しく食べることであると思いこんで結婚した女性が,結婚の夢に破れて離婚しました。現実の結婚生活とは,台所の汚れ物であったからです。調理は材料に「手を」入れて,美味しさを選び出す営みであり,価値を生み出すには手で選別しなければなりません。当然に,作業は汚れ物(非価値)に触れることになります。できあがりしか見ない知らない環境では,生活の中にある相対価値を見る目が育ちません。いいとこ取りは不自然なのです。

 生活の知恵は無意識的行動に習慣化されていきます。いちいち考えなくても出来るように日常化するということです。子どもは親の真似をすることで学びます。仕草が親に似るというのも,日常経験で学んでいるからです。親は見られている自分を意識し,後ろ姿で教える心がけを,つまり,親はこうしていた!という親の姿を記憶させるようにしましょう。「きちんとしなさい」と言葉で教えようとしても,子どもには通じません。しつけとは親自身に似せることなのです。

 父も母も連立方程式なんて解いていない。どうして自分が連立方程式を学ばなければならないのか? そんなこと知らなくても生きていけると避けていきます。大人になって解かないから,解くのは今のうち。なぜなら,それが能力の開発だからです。勉強は頭の中の考える道路の工事,「考える道」を作っているのです。新しい課題に出会ったとき,作っておいた考える力が発揮されるのです。道を作るための工事機械,つまり勉強道具は片付けられ忘れてしまわねばなりません。

 思考を捨てている子どもがいます。考えず,まっとうな自分の意見もありません。捨てさせられているのかもしれません。課題の写生が描けなくて友の作品を盗んで提出してしまい,そのことが明るみに出ました。盗んだ少女も家族も教師の指導力の不足を批判します。盗まれた少女の苦境を分からず,思い至ることもできません。障害を持った友達に「オイチニ,オイチニ」と囃し立てる学年トップの子ども,障害を持つ子どもは学校に行きたがらなくなりました。ちょっと考えれば分かることなのに。



 車に乗っていると,歩行者や自転車が邪魔なものに思えます。一方で,歩いているときは,自動車が乱暴に見えます。ものの見え方感じ方は,立場によって逆転します。子どもたちの見守りのために,あいさつをしようという運動があります。一方で,誰とでも気軽に言葉を交わしてはいけないと教えなければなりません。子どもはどうすればいいのでしょう。大方の大人は子どもを守ってくれるという建前が,中には悪い大人もいるという本音とぶつかります。悩ましいことです。

 週に一度のペースで,小学生の下校時間の見守りをしています。車一台がやっと通れる道幅の通学路に立っています。1台のワゴン車が通りかかりました。子どもたちも車を通すという素振りを見せずマイペースです。車は子どもの後ろにぴたっと迫り,まるで追い立てるかのようです。車には小学生が乗っていました。お迎えの車なのでしょう。同級生を追い立てるような車の中から,どのような思いをして見ていたのでしょう。怖い顔でにらみながらと通り抜ける母親を見送りました。


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