*** 子育ち12章 ***
 

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「第 29-09 章」


『子育ちは 見えない歩み 積み重ね』


 ■子育ち12支援■
『子育ちの第9支援』

 子どもを産む産まないを決めることができるご時世です。子どもは授かりものという神聖な感覚は薄らいでいるのかもしれません。産みたくても産めないという方もおられますが,子どもはとても愛おしいものに見えていることでしょう。虐待といったことはとても信じられないことになります。「子育て」という言葉を使っていると,大人が子どもをどうにでも育てられると錯覚することがあります。子どもの育つ力を無視してしまうので,思い通りにならない育ちに苛つくことになります。

 養成は必要な支援を施した後はごく自然な育ちに任せることですが,促成は育ちの部分にまであれやこれや介入して育ちを早めようとすることです。地鶏とブロイラー鶏の違いでも自明なように,育ちの質に違いが現れます。一人の人間を育てるときには,十分な育ちを確保してやることが何よりも大事にしなければならないことでしょう。早く早くと急かせては育ちはできなくなります。明日のための育ちよりも,今この時の育ちを大切に考えてください。

 子どもは勉強をします。それは将来のためであると思っていたら,苦になります。勉強して物事が分かるという今現在の楽しさを味わうことができないからです。人には機能快というものがあるそうです。能力を使う楽しさです。「努力しろ 言う人なぜか 失敗者」という中学生の声がありました。今現在を精一杯生きていこうとすること,それが本当の努力になります。あれもこれも将来のためにやらねばならないと背負ったら,今を生きるという育ちは覚束ないでしょう。

 今,子どもたちは自己中心的な位置にスタンスがずれています。皆がそうなのでずれていることに気がついていません。自分だけは特別,自分の思うことは全部叶うべき,皆んな自分を祝福し可愛がり特別扱をしてくれるのが当り前と思わせられています。個別には決してそんなことはないと思うかもしれませんが,全体がそうなっているということです。子ども自身の育ちを待てずに,与えすぎ,してやり過ぎているのです。気がつかないままに育つ意欲を奪っていることになります。

 幼児と歩いている母親がちょっと先になり距離が離れると,幼児は一所懸命に後追いします。ところが,かなり離れてしまうと,追わずに座り込んでしまいます。子どもには「やれそう」と判断する範囲があります。親が求める子育ては,子どもにはやれそうと思えないほど先走りしています。子どもは動こうとしません。「仕方ないわね」と愚痴りながら,抱えて連れて行くような態度に出ます。一つ一つを自分でできるように子育ては待たなければ,子育ちは進みません。



【指針29-09:養成を焦り促成に向かっていませんか?】


 ■子育ち支援メモ■
『今日を大切に』

 大人の目ではなく親の目とは,子どもと一緒になって,子どもの立場から見ることです。大人の目は早く済ませたいという自分の欲望の眼になります。テストで,母親が「30点しか取れなかったのね」というと,「違うよ,お母さん,ぼくは30点も取ったんだよ」と言い返します。親の目になってと求めているのです。子どもが一生懸命にやって30点を取ったとき,「30点も取ったね」と共に喜ぶ親であってほしいのです。子どもの足で育ちの道を歩んでいることを認めてやってください。

 斎藤茂太氏が人生80%主義を勧めています。対人,仕事のトラブルの発生源は,100%,完全を望むことから起こるというのです。その通りだと思います。子どもに対する場合にも,子育ての心的要求水準を下げてみませんか? 不達成を残して構わないという思い切りこそが自然な発想です。親の最大の焦りの元は,「今のままでは先が思いやられる」という発想にとらわれることです。育ちとは「今のままではない」ということです。育ちを信じてやりましょう。

 タクシー料金が値上がりしています。乗務員の方に届くことを願っています。ある会社ではノルマがなくて,平均額による査定がされているそうです。誰かが頑張れば平均額がアップして,きついということです。ノルマがあればともかくノルマを果たせばいいということでかえって楽かもしれません。ノルマがないと,際限のない努力が要求され,平均以下は努力不足と見なされます。いつも半分が責めたてられます。子育ても平均ではなく,その子に相応しいノルマを考えてみませんか?

 最近の結婚は最初に全て揃っている所から始まります。高齢化で姑まで付いてきます。結婚後は減らす方が主になります。姑は要らない,夫も要らない,子どもも少なくとなっていき,ついには離婚で清々したとなるのでしょうか? かつての結婚は二人で作り上げていくものであり,目標への途中の歩みを楽しむものでした。子育てにおいても,足りないものがあるから目標が生まれ,がんばる楽しみがあります。ゆったりとした育ちを楽しむように努力しましょう。

 日本人はとにかく何でも「何々のために]とか「何々に向かって」とかいうことを念頭に置いていないと生きていけない。アジア大陸の人々は「今日のために」なのにと指摘する方がいました。明日の目標に向かってがんばっていることの陰を言いたいようです。明日を目指すのはいいのですが,その裏返しとして今が悪い状態だと考えてしまうことの不幸があるからです。今は今でそれなりにいいのだと思わなければ,幸せはありません。明日はもう少しよくなるかもという程度でいいのです。



 かつて男は強く女は優しくとしつけられていました。それは生来男は気弱であり女は気強いということを見越していたからです。ところが,男らしさや女らしさというしつけが排除されたお陰で,今は生来の姿が現れているように見えます。それがいいことかどうかはとにかく,例えば,ひったくりやストーカーといった道に迷い込む男は気弱としか言えません。期待に対するバランスの壊れた環境での育ちについて,きちんと考えなければならないようです。

 自分のしたいことをせず好きなことをせずに,将来に残してがんばってきた人は,将来は自分だけのものと思います。子ども時代を犠牲にしてきた大人は,大人になって自分の時代を生きようとします。大人になれば家族の時代に入らなければならないのですが,自分の時代に閉じこもります。家族になることを忌避します。子ども時代を自分の時代としてやり尽くすことによって,大人になったときに家族の時代に入ることができます。育ちとはそういうことです。


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