『子育ちは 仲間を作り 共に生き』
■子育ち12イメージ■
『子育ち第2指標』
子どものことはもう一人の子どもに任せることが,第1の子育て支援でした。ところで,子どもはわがままなので,自分勝手な決定をすることがあるはずです。自己完結していることについては,自己責任を負えばいいのです。でも,そうではない場合は困ります。子どもといえども社会の一員であり,もう一人の子どもは社会性を育てていかなければなりません。もう一人の子どもが社会の中での自分の立場,つまり皆の中の一人という適正な自意識を獲得しなければならないのです。
見られている自分,他者の目から自分を見ているのが,もう一人の自分です。もう一人の自分が自分と他者と三角関係にあるとき,第三者として自分に社会性を備えさせる準備が整うことになります。現在の世情に見られる様々な品格の無さは,ここに欠陥があるためです。もう一人の自分がきちんとした育ちをしていないために,自分に品格を与えることが出来ないのです。大人たちが養育の際に見落としてきたのは,もう一人の子どもの社会化なのです。
自分らしさというのがトレンドですが,何が自分らしさなのでしょうか? 子どもはわがままから出発します。わがままな自分が自分らしさであると思っていると,他者との関係では常に軋轢を引き起こします。そのために,もう一人の自分は,他者を邪魔者,あるいは利用すべき者と思い始めます。もう一人の自分は客観的な第三者の立場に立つことが出来ません。思い通りに事が運ばないと,他者を排除するしかないと追い詰められていきます。他者に対する慈しみ深い認識が育っていません。
大事なポイントは,もう一人の自分が想定している他者が誰かということです。自分は見られている,では見ている者は誰であると思っているのでしょうか? かつては,神であり,お天道様であり,世間であり,先祖であり,父母でした。そこから,恥ずかしくない生き方を自分に求めることが出来ていました。今は,自分の生き様を見てくれている存在を想定しなくなりました。その留守の場に,人のあら探しをする意地悪な目を持った他者が入り込んでしまうと,閉じこもるしかありません。
社会性とは,一言で言えば,他者と折り合うことです。わがままもほどほどにして,お互いのわがままを半分ずつ分け合うということです。流行の言葉で言えば,共生するということです。お互い様という気持ちで人間関係を持てば,いざこざはほとんど無くなり,社会生活は順調に運びます。もう一人の自分が少なくとも常識的な他者と共に生きる自分を想定できる自他の連結という認識が育ちの第2指標になります。さらにより豊かな他者を求める育ちは後述する第8指標の育ちになります。
【指針30-02:他人を慈しみ交際することができる子ども!】
■子育ち支援メモ■
『お互い様という経験をさせましょう』
友達と一緒に遊ぶ経験が少ないと,一人遊びを好むようになります。自分の思い通りにならないことが嫌なのです。仲間内では,違った役割が割り振られます。例えば,ヒーロー,ヒロインには一人しかなれません。ヒーローだけの遊びは面白くありませんし,仲間はかえって邪魔になります。この閉じこもり状態から解放するためには,仲間と一緒になって一つの楽しい世界を作ることが出来るという例を見せてやりましょう。公園での友達たちの姿を見せたり,童話を聞かせたりするのです。
兄弟姉妹がいると,日々の暮らしの中に競争があり,おとなしく順番を待たなければならないことばかりです。一緒に生きることがお互い様であることを自然に身につけていきます。ところが少子化で,周りが大人ばかりであれば,子どもはいつも優先されて,待つという経験をしないままに過ごしていきます。世の中は自分の思い通りという錯覚,周りの他者は自分の召使いといった錯覚に陥ります。社会性の育ちの環境としては不適当なのです。生活の中で譲るという経験を与えてください。
子どもたちは今の情報化社会の中で育っています。テレビの中の世界についてはよく知っているのですが,自分のごく近くの世界のことはほとんど知りません。そのために,テレビの報道を無関係な世界のこととして切り離してしまう思考に慣らされています。例えば事件や災害などの報道を野次馬的な感覚でしか捉えられず,自分の世界との関係に思いが及ばなくなっています。身につまされるという感受性が育ちにくくなっています。他者の経験を自分の身に重ねる思いやりが発揮しかねます。
他者との関係で,子どもには人見知りという行動が現れることがあります。もう一人の自分が誕生した頃,自分の思い通りに動いてくれた母親から離れはじめ,父親や周りの他者に出会うにつれて,必ずしも他者が自分の都合通りにならない,あるいは邪魔をする存在であることに気付きます。しかし自分の力ではどうしようもないので,他者を嫌いになり恐れ避けようとします。他者を信頼する経験に出会いさえすれば人見知りは緩和されます。
ゲームの世界に浸ると,登場する人物を味方か敵かに分ける人間観にとらわれます。敵は抹殺しても構わない存在になります。その育ちの顛末は,自分の欲望を満たすために行きずりの人からひったくりをして恥じない輩が出没していますが,人を餌食としか見ることのできない愚かさにつながっていきます。他者の大部分は,味方でもなく敵でもない,共同して社会に生きている者です。袖振り合うも多生の縁という,つながりを意識できるように育てるには,地域の縁に触れる経験が必要です。
もう一人の自分が,自分を特別な存在ではなく,他者と同じ大勢の中の一人に過ぎないと考える育ちが第2指標です。ところが,そのままではとても居心地が悪い上に,自立の途上である子どもにとっては不安な気持ちにおそわれます。雑踏の中で人は孤独感を味わうと言われますが,それは誰とも何のつながりもないことを知っているからです。子どもは不安になれば,育ちを止めて閉じこもります。育ちのスイッチは安心がオン状態ですが,どうすればいいのでしょうか?(以下次号)
子どもの野生化が起こっているという意見があるようです。一年生の教室で,じっと出来なくて自分勝手に動き回る子どもたちが一つの例です。皆の中の自分という立場を弁えるしつけが出来ていません。江戸時代の寺子屋に入るためには,一刻(2時間)の間おとなしく先生の話を聞くことができることという条件が課されていたそうです。最低限の学習する資格,それは学校に入る前にしつけておくことでした。野生というのは訓練をされていないということのようです。親の仕事です。
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