*** 子育ち12章 ***
 

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「第 3-06 章」


『親に似た 走りの遅さ 叱れない』


 ■はじめに

 飛行機から下界を見下ろしたとき,「地図と同じだ」という感想が出ます。
 ドライブの時,自分の位置を頭の中の地図で確かめることはよくあります。
 ところで,初来訪のお友だちに電話で自宅までの道案内ができますか?

 自分を相対化する想像力は,自分をもう一人の自分が見下ろすことです。
 もう一人の自分は自分から離れて,空間を自由に飛び回ることができます。
 さて,この想像力はどんなときに発揮されているのでしょうか?

 ラジオは耳だけの情報ですから,イメージを想像しなければなりません。
 テレビは目で見ていますから,想像力はほとんど必要ありません。
 ということは,もう一人の自分は用がないのでうたた寝をしています。

 テレビは想像の出番を邪魔しているデメリットを持っています。
 しかし,見たこともないものは想像できないということがありますね。
 テレビは想像するための素材を提供してくれるメリットがあります。

 仏像の目は半眼で,眠っているような不思議な目をしていますね。
 開くと外は見えても内が見えない,つぶれば心は見えても外が見えません。
 内も外も見えるように半眼になっているのです。

 自分の目で外を見て,もう一人の自分が外から心の内を想像します。
 自我とは,自分ともう一人の自分である我の「同行二人」なのです。
 子どもともう一人の子どもの二人を産み育てるのが,父母の務めです。



【質問3-06:あなたは,お子さんの気弱さが心配になりませんか?】

 《「気弱さ」という内容について,説明が必要ですね!》


 〇人の目がこわい?

 世間の目がこわいという思いは多くの人が持っているでしょう。他人が自分をどう見ているか気にしているママもいるでしょう。その最も顕著な現れが,人前に立つときです。普段は何も意識せずにおしゃべりできるのに,人前に出ると身体が堅くなって話せなくなりますね。

 誰でも人前では上がります。特に何かを始める前は必ず緊張します。慣れた人というのは,いったん始めたら緊張を忘れることのできる人です。決して緊張していないわけではありません。その証拠に終わればフッと息を抜きますが,疲れているからです。

 人の中に入れば,否応なく人目にさらされます。実のところ,思うほどには人は自分のことなど見てはいません。しかし,見られる自分をもう一人の自分が想像しています。人が装う理由は見られて恥ずかしくないようにという,もう一人の自分による自分の防衛のためです。

 世間の目をうっとうしいものと排除する生活が普通になっています。また,都会では人が多すぎてすべての人の目に応じることは不可能です。近隣関係を遮断した暮らし方を余儀なくされていきます。他者の存在を見ず知らずの人と消し去ることで平穏さを保っているのですが,同時に「見られる自分」を意識するもう一人の自分も巻き添えになって喪失されてしまいます。

 成人式で非礼な振る舞いをした若者には,「目立ちたかった」という思いがあるのでしょう。確かに見られる自分を意識はしていますが,自己表現の意味を全く分かっていません。本当の他者の目を理解していないという意味で,もう一人の自分がまだ幼稚なのです。

・・・人の目を気にするのは,もう一人の自分の目覚めです。・・・


 〇悩むのは?

 学校に行けなくなるときは,もう一人の自分がブレーキを掛けています。なぜブレーキを掛けるのかというと,自分を守りたいという赤信号が出ているからです。もう一人の自分が自分を再確認したいということもあるでしょう。いったい自分は何をしたいのか?,学校に行く自分とは何か?,自分は何のために生きているのか? 自分を知らないと自分の可能性を学校という社会の中で引き出すことはできません。信号が青になるまで蛹としてこもる時です。

 人は悩みの多い生き物です。庭に飛んでくるスズメや隣の猫には悩みなど微塵もありません。人だけが悩むのは,もう一人の自分に時の流れを見る力があるためです。悩みを個人のレベルで分けてみますと,過去の不信,現在の不満,将来の不安の3種類になります。過去を信頼し,現在に満足し,将来の展望があれば,人は悩むことはないはずですね。因みに,不満のあるのが下流,不満はないが不安のあるのが中流,不満も不安も無いのが上流だそうです。

 「いつまでもそんなことでどうするの!」とママにきつく責められます。過去がダメ,現在もまだ,将来も悲観という烙印を押されたら,子どもは三重の悩みを抱え込みます。子どものことですから当初は深刻ではないでしょうが,じわりじわりと心を蝕んでくるはずです。悩みを背負った自分を解放しようとするときがやってきます。歩みを止めて,もう一人の自分がいままでの自分を振り返り,いまの状況を納得できないかぎり,先に進めないからです。

・・・過去を悔やまず,現在を直視してこそ,将来の不安に立ち向かえます。・・・


 〇逃げる?

 気持ちが落ち込むと逃げ出したくなります。ママはこんなに子どものことばかり思っているのに,子どもはさっぱりその思いに応えてくれません。その歯がゆさはやがて無力感に変わっていきます。そこから這い出ようとするとき,二つの道が現れます。一つは自分を痛めること,もう一つは周りの家族やよその親子などへ矛先を向けることです。それができないとき,道を逸れて逃げるしかありませんね。

 子どもはあっけらかんとしているかというと,そうでもありません。子どもは幾つかの顔を使い分けています。親,先生,友だちに向ける顔は違っています。先生は先生面,親は親面で,役割の面しか見せてくれないので,子どもも役割面を強制されるからです。ところが,その顔と顔の間にジレンマが発生すると,悩み,不安にとらわれます。子どもだって苦労しているのです。

 いろんな顔を使い分けていると,自分の本当の顔はどれかが分からなくなります。自我のあり方が複雑になって,混乱します。ママだって,ママであり,女であり,妻であり,子どもであり,嫁であり,仕事人であって,本当の自分は何か分からなくなることがあるでしょう。自分というものがまだ未成熟な子どもには荷が重くなります。そこで,役割を押しつけてくるものから逃げようとします。まず学校から逃げて登校拒否,次に世間から逃げて引きこもり,最後に親から逃げるために家庭内暴力へと進展します。痛い思いをしてまで張り付いている面を外すことで,本当の自分の顔を表に出したいのです。

 誰も子どもを追いつめるつもりはありません。よかれと思うことが重なっただけです。子どもを親の期待に添うべきつくりものではなくて,どんな子どもであろうと丸ごと「あなたはママの大事な子ども」と,子どもを信じる確かなメッセージを送り続けてください。それが子どもの座礁を防ぐ灯台です。

・・・一日一度は親の鬼面を外して,笑顔のママになってください!・・・


 〇はっきりしない?

 自由な雰囲気の中で個性を求められる時代は,積極性が不可欠です。おとなしくしていたら置いていかれます。自分を売り込まなければならない大変なことになっています。そのことを肌で感じているママは,ちょっぴり気弱な子どもが心配です。

 「はっきりしなさい」というママの声が聞こえます。子どもの決断は「何となく」とか,「みんながするから」という傾向を持っています。もちろんすべての子どもがそうだというのではありません。前よりも増えてきているということです。自分はこう考えたという裏打ちがないのです。音楽も流行っているという理由で,ゲームもみんながするからという理由で選択しています。日本中どこへ行ってもみんな同じということが証拠です。

 自主性や積極性は,もう一人の自分が考えて決めたときにのみ備わってくるものです。人に言われてついていく状況では流されているので,はっきりとした意思表示は不可能です。もう一人の自分の出番が無くなっているので,心底納得できませんし,自分を掛けるという気概も出てきません。放置すると,後で大きな揺れが起ってきて,自我分離という問題行動を発生することになります。

 子どもに少し難しいお手伝いをやらせて,ちょっとだけ追いつめる体験をさせます。もう一人の子どもが何とかしようと一所懸命考えて,自分を頑張らせてやり遂げたとき,その喜びによって「やった」という自信が定着されます。自分でやった小さな冒険や挫折の経験が育ちの確かな年輪になるのです。

・・・子どもの裁量に実績を積ませてやって下さい。・・・


 〇シャキッと?

 「ママのように背筋を伸ばしてシャキッとしなさい」。姿勢が崩れると,気持ちまで崩れてくると言われます。心にも背骨が必要なようですが,それはいったいどんなことなのでしょうか? 精神的な自己の存在感を支えているのはプライド,つまり自尊心ですね。

 自分を尊ぶのは誰でしょう。もう一人の自分が自分を尊ぶのです。自分を肯定できない人は他を肯定できませんし,自分を憎んでいる人は他人をも憎むようになります。自分を愛していない人に他人を愛することは出来ません。もう一人の自分が自己を肯定し,自己を認めてやり,自己を励まし,喜ばせられることが,シャキッと生きていく姿です。

 ところで,プライドの高い人で,何ともつきあいにくい人がいます。若者が変にプライドにこだわり,「バカにされた」といとも簡単にキレルことがあります。プライドは心の背骨ですが,背骨だけでは役に立ちません。心の肉体が不可欠です。むき出しの背骨はお互いに危険です。

 柔軟な筋肉によって覆われてこそ,背骨の価値が発揮できます。この筋肉は自分と他人を結びつける絆です。自分を大切にすると同時に他人とのつながりを大事にすることが,心の正常な働きです。人の存在感とは,自分と他人のよい関係の中にしかあり得ません。だからこそ,人は社会を営んで生きているのです。

 シカトするといういじめが可能なわけは,絆を切り離すことによって人の心を機能不全に追い込めるからです。ママの「そんな子はきらいです」の一言で絆を失うと,その反動で子どもの心を支えているプライドがゆがみます。心がねじ曲がっているという言い方も,絆が切れてプライドがねじれた感じを表現しています。

・・・心にも背骨と筋肉があるのです。・・・


 〇心の準備体操?

 人前に出ると緊張したり,他人の目があると引っ込みがちになる理由は,プライドが堅くなっているからです。自意識過剰という状態です。身体が堅いのと同じように,心も堅くなります。心身共に柔軟でないと,心身共にケガをします。心の柔軟体操が必要です。

 まず,自分を信じられるように,十分な予習をすることです。子どもであれば,いろんな体験をすることです。人が逃げる理由は,「したことがない」です。ママがPTAなどの役員を引き受けない逃げ口上も同じですね。前に似たようなことをしたことがあるという経験ほど,心強いものはありません。見たことがあるという程度でも,気持ちは楽になるはずです。自分を信じるとは,自分のこれまでの経験を信じることです。信じるタネが必要です。

 つぎは,人目に向かう緊張に慣れるように,改まった席の場数を踏むことです。普段の家族の前では緊張しませんね。でも,家族があらためて観客になるような姿勢をとれば,ちょっとは緊張します。ご近所の家に上がれば,それなりの緊張があるはずです。公的な場に親が連れて行って,おとなしくしているという緊張感も大事です。子どもが退屈するからとか,騒ぐからと連れて行かないでいると,緊張する耐性が育ちません。

 図書館で騒ぐ我が子を館員に注意されるようでは,親失格です。ましてや親自身が館員をにらみつけるようでは,社会人としての資質の欠如です。でも,現実にはそういう事例が身近に起こっています。悲しいことですね。

・・・適度に緊張する場に子どもを連れて行ってください。・・・



《気弱さは,育ちへのファーストステップとしての意味があります。》

 ○次の等式を見てください。「かがみ(鏡)−が(我)=かみ(神)」。鏡の前に我を捨てて無心に立てば,神に近づくのです。昔は,鏡を神聖なものと考えていました。今ではいかに衰えを隠そうかとママは鏡の前に立つようですが,それでは我は捨てきれていませんね。我を捨てるとはもう一人の自分をいったん消して,そこに神を宿らせることです。神の命ずるままにという信仰は,こうして産まれてきました。

 【質問3-06:あなたは,お子さんの気弱さが心配になりませんか?】

   ●答は?・・・どちらかと言えば,「ノー」ですよね!?

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