*** 子育ち12章 ***
 

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「第 3-10 章」


『弱い子が 産んで不幸と ママに聞く』


 ■はじめに

 ビールの味利きを仕事にしている人がいます。
 お酒の好きな人にはうらやましいでしょう。
 でも,仕事になるとそれはそれで大変なようです。

 味利きをするために必要なことがあるそうです。
 一つは,空腹であること。
 味覚が鋭くなるからです。

 もう一つは,ビールの合間に食パンなどを食べること。
 味を無味に戻すためです。
 味のご破算をするのです。

 何事でも見極めをしようとすると,無にならなければなりません。
 子どもを見守るときも同じです。
 親の目のうろこが無色でないと,見間違えてしまいます。

 それでは,親の目が無色になるとはどういうことでしょうか?
 素直に親の言うことを聞く子どもでなければいりませんか?
 いつまでも親の手がかかるひ弱な子は苦労の種で捨てたいですか?



【質問3-10:あなたは,お子さんのひ弱さが気になりませんか?】

 《「ひ弱さ」という内容について,説明が必要ですね!》


 〇親孝行?

 軽い知恵遅れの子どもがいました。年老いた母は成人しているその子の面倒を見ていました。優しい母はボランティア活動にも進んで参加して,周りの人にはちっとも苦労を見せませんでした。ある日,その子が自転車に乗って出かけバイクと衝突して亡くなりました。母親の落胆ぶりはみんなの涙を誘いました。

 みんなが話しています。「あの子は親孝行をしたね」。親は老いていきます。いつまでも子どもの世話を続けるわけにはいきません。親は行く末が心配だったはず。亡くなったことは悲しいけれど,母親は自分が見送ってやれたことできっと安心できたことだろうということです。

 出産前に願うことは,丈夫な赤ちゃんが産まれることです。健康でありさえすればいいというささやかな願いです。その小さな願いも叶えられないことがあります。出産直前になると無事に産まれてくれさえすればいいと思ったはずです。生きていてくれさえすれば。それが親の心の原点です。

・・・ときどき,今わが子がいなくなったらと考えてみてください。・・・


 〇しつけで治す?

 ある保育園に自閉症の子が入園しました。先生はあれこれ熱心に世話をし,お陰で卒園を迎えたときにはすっかりよくなっていました。先生は保育者,教育者としての自信を得て,教育に生きがいを感じていました。

 次の年に,今度は全盲の子が入園してきました。その熱心な先生は世話をしている内に迷っていきました。自閉症の子を治すことが教育だと思っていましたが,それなら目の見えない子の目を見えるようにするのが教育ということになると気がついたのです。でも,それは無理なのです。

 教育とは,目が見えないままで幸せにしてあげること,幸せになれるように育ててあげることです。教育で人が変わると言われます。しかしそれは人の弱さを治すことではありません。病気を治す病院とは違います。教育やしつけでできることは,弱いままでどうすれば幸福になれるかをみんなで考えていくことです。

 もちろん子どもの幸せを願って親はしつけをします。しつけの基本は今の弱い状態の子どもを否定することではありません。弱さを認めてやった上で,何ができるかを見つけてあげることなのです。

・・・子どもの弱さは治すべき病気ではありません。・・・


 〇いつまでもできない?

 スポーツや遊びの技能は,はじめてしばらくは練習すればするほど目に見えて上手になります。ところがある程度のところまでいくと,いくら練習してもそれ以上上達しなくなります。成長の階段には踊り場があります。

 手足を動かすためには指令の神経プログラムが働かなければなりません。上手になるということは,複雑で精密な指令ネットワークを構築することです。簡単な手料理ならすぐにでもできますが,美味しいものを作ろうと思ったらいろんな下準備やたくさんの手間暇がかかります。作るための見えない作業には無駄とも思える時間が必要なのです。

 子どもの成長についても同じことが言えます。当初はみるみる育っていきますが,やがて何度やってもうまくできない壁に突き当たります。この子は不器用なんだからとか,どうして教えたとおりにできないのとか,終いにはまだやってるの,できもしないくせにとか・・・。

 そんなとき,子どもは成長の踊り場にさしかかっているのです。いくら前に進んでも上には行きません。同じところを堂々巡りをしているように見えますが,実は次の登り階段に一歩ずつ近づいています。何度やってもダメな状態を繰り返すことで,次の育ちをする助走をしています。

・・・育ちの踊り場がひ弱さに見えてしまうことがあります。・・・


 〇引っ込み思案?

 しゃれた装いをして目立ちたいと思う反面,おかしな服装で目立ちたくないと思いますね。見た目の評価が気になるものです。乗り物で社会的な弱者に席を譲るのも,妙に目立ってしまいそうでためらわれます。誰もがした方がいいと思うはずのことでもついつい引っ込み思案になるのは,人目を気にしているからです。

 誰でも人によく思われたいものです。そのときに思案することは人の思惑ですが,実のところこれが意外と当てになりません。ほとんどが本人の気にしすぎです。鏡の前であれこれ居ずまいを正しますが,そのときもう一人の自分が他人の目になって自分を鵜の目鷹の目であら探しをしています。その厳しいチェックをパスすると,これで大丈夫とやっと安心します。

 子どもはあらゆる面で未熟です。もう一人の自分が自分はちゃんとできると思えることはめったにありません。自分の厳しいチェックの目で太鼓判を押せない以上,人に笑われるという目立ち方を招きかねません。それを恐れる思案がブレーキをかけて,自分を引っ込ませてしまいます。

・・・弱くて当たり前という開き直りが育ちのスイッチです。・・・


 〇一姫二太郎?

 昔から子どもについていわれている「一姫二太郎」という言葉があります。女児一人と男児二人のきょうだい三人が理想という意味ではなくて,最初の子は女児で男児は二番目に産んだ方がいいということです。

 かつて,乳幼児期は女児の方が丈夫で,男の子の方が相対的にひ弱だったという経験があったのです。その証拠に男女の人口を見ると女性の方が多めになっていますね。ですから,子育て一年生の初心者である親には,まず女児を育てて育児の経験をしてから,育てにくい男児を産み育てる方が賢明だと思われていました。

 もし一姫二太郎のご家庭でしたら,下の男の子は多少ひ弱であるものと思ってみることです。ただ成長面でのその差も小学の中学年になると見えなくなります。ところで女児の方がおませに見えて,同年齢でもお姉さんに見えることがありますね。そういえば,一つ年上の姉さん女房は金の草鞋を履いて探せと言われていました。男の子は総じて甘えん坊なのかもしれませんね。パパはどうですか?

・・・日本の神様も姉弟の組み合わせでしたね?・・・


 〇選ばれた不幸?

 老いた親を気遣って,家を出たいがそばにいてやりたいと決心した優しい子どもがいました。しかし人は弱いものです。親のせいで進路を変えてしまったことで後から親を恨むことになっていきました。「親が元気だったら!」と考えてしまうのです。

 身体的にひ弱な子どもがいると,親はこの子のためにとがんばれます。でも親も四六時中がんばり続けることはできません。疲れたときなどに,フッと「この子がいるばかりに」と思ってしまうこともあります。親だってひ弱なのです。

 温かい世話を受けている弱い立場にいる者は,自分の弱さが周りの人の不幸を招いているかもしれないと常に気にしています。自分はいない方がいいと思われていないか?,そんな心配を心に抱えて生きることは難しいことです。

 神様がいるとしたら,何て不公平な処遇を与えるのかと恨みたくなります。神様はこの人だったらきっと弱さを糧にできる人だと見込んでくれたのでしょう。人は誰でも弱さを抱えています。自分の弱さではなくて,周りの大切な人の弱さを一緒に背負って生きています。それから逃れずに生きていく姿勢が,生きてきてよかったという究極の幸せの切符だと思います。

・・・耐えるべきは相手の弱さではなくて自分の弱さです。・・・



《ひ弱さは,決して不幸のタネではありません。》

 ○世界中の船舶電波の送信は毎時15分〜18分,45分〜48分の間だけ中止されます。通信室の時計の文字盤はこの6分間が赤く塗ってあります。電波が沈黙している理由は,この間にどこかから発信されているかもしれない弱いSOS信号を受信するためです。沈黙の時間をもつのは,弱い人の声に耳を傾ける優しさなのです。ちょっとだけでいいですから,ママは黙って弱い子どもからのSOS信号を聞く姿勢をとってください。

 【質問3-10:あなたは,お子さんのひ弱さが気になりませんか?】

   ●答は?・・・どちらかと言えば,「ノー」ですよね!?

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