*** 子育ち12章 ***
 

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「第 31-02 章」


『子育ては 判断できる 経験を』


 ■子育て12指針■
『子育ち第2指針』

 人は誰でも自分が可愛いものです。もう一人の自分は自分を第一に考えるのが自然です。幼子とて自分を優先させます。それがわがままの原因です。決して悪いことではありません。生きるとは,とにもかくにもなりふり構わず自分が生き延びる営みです。

 その根っこを認めることから,子育ては始まります。ママだって,危急な場合を除けば,自分の都合に合わせて子育てをしているはずです。ごめんねと言いながらも,子どもを預けています。生きていくためには仕方がないのです。子どもの犠牲にはなれないというわがままな選択をしています。人の遺伝子はわがままなのです。

 一方で,人は社会という環境を住処として暮らしています。そこでは,無軌道なわがままは受容されません。社会人という規格に整形される必要があります。規格外の品物ははじき出されるということです。大事なことは,上手にわがままを実現させることなのです。ずる賢いのはいけません。結局はわがままが通らなくなるからです。自分のわがままをもう一人の自分が規格に合わせようとしさえすればいいのです。

 お部屋はきちんと片づけておくもの,そういう暮らしの規格があります。子どもが遊ぶと部屋は散らかります。規格にそぐわない仕儀です。そこで後始末というフォローが課せられます。後始末をすれば,好きに遊んでもいいのです。お菓子が食べたいという欲求は,3時になれば適えられます。

 ところで,朝は7時に起きるという家の規格もあります。時間的な段取りがあるからです。寝ていたいというわがままは許されません。しつけというママによる強制が子どもに降りかかります。ここでママは一つの過ちを犯してきました。子どもを起こし続けたのです。言わないといつまでも起きてこないからというわけです。確かに癖をつけるという意味で起こすことは大事です。しかしそれはあくまでも最初の誘い水,オリエンテーションに留めておくべきだったのです。

 子育ては,もう一人の子どもに向けるものとお話ししておきました。明日からは自分で起きてきなさいと,目覚まし時計を渡してもう一人の子どもにバトンタッチをしなければなりません。案の定,起きてきません。時間が過ぎて慌てて飛び起きてきます。食卓は片づいてしまって,朝食がありません。「ボクのご飯は?」,「時間が過ぎたらありません」。午前中お腹が空いて,懲ります。もう一人の子どもが本気に考えます。明日はちゃんと起きよう。

 わがままは通りません。人からダメと言われると,むかつきますよね。でも,自分で止めると,幾分かは楽になります。もう一人の自分が自分をコントロールできれば,嫌な思いも浅くて済みます。しつけとは,もう一人の子どもがわがままを自制するようにし向けることです。自制,それは自分をセーブすることです。誰が? もう一人の自分です。起こし続ければ,もう一人の自分はいつまでも目を覚ましません。

 自分をコントロールするということは,環境に合わせるということです。家の生活がどのような規格になっているか,もう一人の子どもが理解しなければなりません。8時を過ぎたら朝食はないという規格を明示してやることも一つのしつけです。朝食抜きは可哀想ですか? だから,起こし続けますか? ただし,朝食を食べないという習慣が出来上がっていたら,使えませんが。



【指針31-02:子どもに判断をさせていますか?】


 ■子育て第2指針■
『自分を見つめる』

 夕食の前です。「ちゃんと手を洗ってきなさい」,「はーい」。ママはちゃんとしつけをしています。これでいいのでしょうか? 少しばかり形を変えてみましょう。「何か忘れていない?」,「あっ,手を洗ってなかった」。食卓に着く前の自分を思いだして,いつもの自分と比べてみる,この振り返るプロセスがもう一人の自分を目覚めさせ,自分を今の状況に相応しい自分にするきっかけになります。

 「裸でいたら,おへそ取られちゃうよ」と軽く脅されます。おへそを取られないためにはどうしたらいいのかなと考えます。服を着て隠せばいいと答えを見つけます。もう一人の自分が自分を庇うことができます。「きれいなお洋服を着て,かわいいね」とおだてられて,もう一人の自分が自分はかわいいと思うようになり,他者の目を待てるようになります。

 ママに履かせてもらっていた靴,やがてある日,もう一人の子どもが履かせようとします。「自分で履く」というわけです。もう一人の自分が自分を親の手から取り戻そうとするのは,育ちが進んでいるからです。したいなら気の済むまでやらせてみようと任せます。うまくいきません。あれこれやってみながら,考えます。できないと,だんだんといらついてきます。この靴は壊れている,なんて言い出しますよね。

 もう一人の子どもが,フッと思い出します。パパが靴を履くとき何かを使っていた,何だったかな,これだ,靴べらを見よう見まねで使います。何とか履くことができました。これで靴を履くことについては,もう一人の自分がママの手から自分を取り戻すことができました。同時に,パパと同じになった自分を感じます。この他者とのつながりを感じ喜ぶことは,社会性への大切な誘導になります。

 雨に濡れてしょんぼりしている子犬を見つけて,可哀想だなと思います。下校時に雨に降られて濡れて帰ったときの冷たかった自分の感触を,もう一人の子どもが犬に重ねています。思いやりの基本形は,自分の身に置き換えて考えるということです。家に帰り着いたとき,ママがバスタオルを出してくれた温かさを思い出し,子犬にしてあげられないかと考えます。思いやりは,自分にしてもらった温もりを誰かにお返しすることです。

 子犬の姿をみて,もう一人の子どもは自分とママとの温かなつながりを考えることができます。具体的な体験があるから,似たような状況に遭遇したときに,そこにいた自分を考えることができるのです。物語に感動することも同じパターンです。

 子どもはいろんな親の仕草を見て,親との関わりを通して,それなりに考えて,自分に試そうとします。子育ちの自然な営みです。考えさせる,それがもう一人の子どもへ親からしてやれる子育てです。子育ちと子育ての違いが少しはイメージして頂けたでしょうか?



 赤ちゃんはいろんな表情を見せてくれます。周りの人がよろこんでいるみたいだけど,どうしてかな? こうしたときかな? こうすればいいんだ! よろこばれる表情として笑顔を探り当てて身につけていきます。周りからの働きかけを手がかりに,自分の行動を選び取っていきます。こうして社会性に向けた育ちが進みます。人の中で育つことが不可欠になります。このことは,この後も偶数番目の指針の根本になります。

 人が生きるために所を得るということがあります。子どもが育とうとするとき,今いる所が居心地が悪ければ,育つことはできません。ヘンデルとグレーテルは,幸せの青い鳥が何処にいるか,その場所を求める旅に出ました。今いる所で育つことがよいということですが,そこには何があるのか,見つけておかなければなりません。もう一人の自分が大切なことは何かを知っておかなければ,見逃してつかみ損なうことになります。(以下次号)

 子どもは嘘をつきますし,言わなければならないことを黙っています。それが後々どういうことになるのか判断する力がないこともありますが,何よりも自分を守るためです。叱られないため,友達とのつきあいのため,あるいはプライドのためです。未熟なせいで上手にこなしきれないとき,周りとの関係が壊れることを恐れて,取り繕おうとします。例えば,先生のことを自分の都合のいいように言い挙げたりは多いようです。直接に大人同士の信頼関係を作っておかないと振り回されます。


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