*** 子育ち12章 ***
 

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「第 31-07 章」


『子育ては 地道な実行 励まして』


 ■子育て12指針■
『子育ち第7指針』

 「しようと思っていたのに・・・」。口では偉そうなことを言っていながら,何もしていない。有言不実行というのは,身近に散見することができます。子どもに対して「やればできる」ということが励ましや慰めになる場合もありますが,やらなければ始まらないのです。やらなくてはならないことがあります。先延ばしにしたいことがあります。今しなくても,私がしなくても,そんな言い訳をつい考えてしまいます。でもそれでは・・・。

 ゼミに顔を出さない学生がいるので,家に連絡を取ると,アルバイトに行って留守だという返事です。勉学よりもアルバイトが優先していることに,何の疑いも見せない親がいます。日銭といった形で結果がすぐに得られる行動の方がやりがいがあるというのでしょうか。勉学の効果は見えにくいので後回しにしてもいいと思っているのでしょうか。何のために学生になったのか,人生の一時期を費やして何を手に入れたいのか,見失っています。

 授業料は決して安くはありません。大枚をはたいた以上,それだけの力を養わなければ無駄遣いです。それを言って聞かせても,分かりません。分かろうとしないのではなく,分からないのです。面倒な学習に価値を付与することができない育ちをしてきたのです。大学を卒業した,それが名目であっても通用する時代はとっくに終わっています。さらに,実質的に身についた卒業であっても,将来は必ずしも保証されてはいないのです。

 自分が選んだ道であるなら,それに精進することが大事です。価値とは自分がどれほど人生を注ぎ込んだかという量によって測られます。棚ぼたの価値,つまりあぶく銭的な価値を,価値と見誤っていると,先行き沈んでいくことになります。手っ取り早く金を手に入れたいと,ひったくりなどが蔓延しているのも,こつこつと実行する姿勢が身についていないからです。

 手に職を持つと言われてきた精進の道,辛抱と努力で購ったものが確実な自分の価値になります。大学に入りさえすれば,その次はいい会社に入りさえすればと歩んできても,その間面倒なことを避けて精進を忘れていたら,会社に入っても使いものになりません。大学を出てもそんなことも勉強していないのか,と放り出されるのが関の山です。自分には合わないと言って,仕事から逃げ出すことしかできません。

 何も勉強だけではありません。生きていく上で自ら対処すべき事柄を,面倒くさいと逃げてばかりいると,逃げ癖がつきます。その症状が人のせいにする口上です。自分を認めない世間が悪いといった逃げ口上を言うようになったら,かなり重症です。世間をバカにしてはいけません。世間は冷徹に人を測ります。実力は隠せないものと知るべきです。現れないのは実力が足らないことであり,それに気付かない迂闊さが自業自得なのです。

 面倒くさい,それが自分を甘やかします。生き生きしている人は,決して何事も面倒くさいとは思いもしません。一つ一つ,てきぱきと事を処理しています。そうすることが自分の実力を培うことになることを知っています。もしも,子どもが面倒くさいと言うようになったら,育ちが正に停止しかけていると思うべきです。



【指針31-07:子どもに実行をさせていますか?】


 ■子育て第7指針■
『陰の実行が本物』

 若者たちは,面白いか,かっこいいか,刺激があるか,そのような感性を揺り動かすことを求めています。それは暮らしを彩る二次的な価値にすぎません。例えば,ダサイと誰かに思われたら,大変なパニックに陥ります。どうということはないはずですが,本質的な価値の否定になると思いこんでいるからです。毅然とした態度,堂々とした行動,さわやかな振る舞い,そんな姿を大人は見せてきませんでした。

 パパは臭いという理由で忌避されます。友だちを臭いといじめます。人がいい匂いを出すはずもありませんし,人の匂いをイヤな匂いと思う感性の方が間違っています。生活臭というものも嫌われものです。ママの高価な香水とトイレの匂いが同じという笑えない現実があります。どうして生きることから目をそらして逃げるのでしょうか? 汗くさいと不潔,程度はあるでしょうが,汗くささを憎むのも度が過ぎると心を狭くします。

 仕事をすれば汗をかきます。汗をかくからイヤだという仕事の拒否理由が登場してきます。本末転倒です。あくせく生きることがダサイという感性が働くと,現実の価値から離反します。面白おかしく生きることは,道化師を見て笑うだけの世界と同じです。深い悲しみを秘めるために戯けた白塗りをしている道化の表面の姿しか見えていないようです。悲しみというバランサーがあればこそ,面白さに深みが備わっているのです。

 地道な日々の上に咲く花だから美しいのであって,切り花の美しさは飾り物です。野原の片隅に咲く一輪,その感動は心の底からわき上がります。生かされた美しさよりも,生きようとする美しさを素直に感じる感性が美的価値への関門です。種から育てた花が開いたとき,深い感動が訪れます。買ってきた花にはそれがありません。その違いを経験すれば,生きることの美しさが見えるようになります。

 団らんの和やかさは,台所のゴミが産み出しているのです。ゴミを汚いと感じるように育てられたら,おそらく大人になっても団らんを作り出すことはできないでしょう。それだけならまだしも,団らんそのものの価値を見逃すようになります。部屋をきちんと整理するから,身繕いがすっきりとします。普段の生活がおざなりで,ここぞというときにきちんとできるはずがありません。やるべきことを実行できていれば,無理なくちゃんとした生き方ができます。

 華やかなものに憧れるのは,子どもの常です。それは必要ではあるのですが,それがどれほどの地味な下準備に支えられているか,汗にまみれた努力の賜物であるかという事実を知っておかなければなりません。幸せの青い鳥,隣の芝生,いずれの迷いも自分の足下を愛おしむ心根の消失によって現れます。価値あるものはつまらない汚れたものとして周りにひっそりと転がっているのです。眼力を養っておかないと,いつまでも価値あるものを見つけられなくなります。



 人を見るとき,その人の経歴を参考にします。何をしてきたかということが,何ができるかということになるからです。するつもりであるというのは,世間では意味をなしません。実行して初めて認められます。親の姿を見れば子どもが見えるのも,親がしていることが子どもに写されていくからです。子どもにとっては,親が育ちの保証人になります。やるべきことをしっかりと実行できているか,振り返ってみることも大切です。

 人が生きていく過程で最も問われることは,信用であり信頼です。99%の信頼というのはあり得ません。たった1回の不誠実な行いが,99回の誠実を帳消しにします。では,人はどのように他人を信頼するのでしょう。住所が記載されている免許証や保険証,それが人の身分証明書,信頼のパスポートなのです。住所にはどんな意味があるのでしょう。居を構えていることは,そこに地縁が結ばれているという了解があります。まわりの人と信頼関係を結んでいるはずだというわけです。その信頼関係を結ぶためには,どうすればいいのでしょうか?(以下次号)

 ここ数年,PTAの総会で来賓のあいさつを依頼されています。古い会長ということでの役回りです。型通りのあいさつはしない主義なので,いつも先輩会員からの現会員へのメッセージということで,短いお話をしています。今年は,学科,教科の「科」という字の意味をお話ししました。科という字は禾偏に斗と書き,穀物を升で量るという意味であること,あるものを物差しや基準で分けること,分けることが分かることになるという話です。ショート講演も楽しいものです。


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