*** 子育ち12章 ***
 

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「第 31-09 章」


『子育ては 明日への希望 見せてやり』


 ■子育て12指針■
『子育ち第9指針』

 いじめを受けて死を選んでいく子どもが後を絶ちません。とても悲しいことです。いじめは大いなる人権侵害ですが,人権とは何かを学んで知っているだけで,心のひだに刻めていない子どもが増えてきたということでしょう。掛け算を覚える前に人の哀しみを弁えるような子どもに育てなければなりません。いじめを無くす努力とは,そういうことです。いじめられることも,いじめることも無しにしなければなりません。

 辛い話ですがもう少しおつきあい下さい。いじめを受けたら子どもは必ず死んでいくでしょうか? 辛くても耐え抜いた子どももいるはずです。いじめはあってはなりません。しかし,たとえいじめられても死なない子どもに育てなければなりません。そんな子育てができるはずです。強くなくてもいい,でも負けない子どもに育ててやるのです。一方では,いじめる子どもも何かに負けているのです。

 死を選ぶとき,気持ちは八方ふさがりのはずです。「生きていてもこの先いいことはない」,そう見限ったときに,ふっと魔の手に誘われるはずです。暗闇の閉じた袋に風穴を開けておかなければなりません。それが希望です。「この先いいことはない」と思いこむのではなくて,「この先何かいいことがあるかもしれない,あるはずだ」と信じることができれば救われるはずです。

 今は辛い,でも辛抱していればきっといいことがある,それが生きる力の源です。何がある? そんなことは分からないけど,あるはずだ,と信じるのです。耐性とは明日を信じなければ湧いてくるものではありません。確かにそれは具体性のない曖昧なもの,頼りないものに思われることでしょう。それでも,明日への希望を持っているかいないかで,結果には雲泥の差が出てきます。

 情報の洪水の中で,子どもたちはたくさんの知識を吹き込まれています。知りすぎた子どもは危ないのです。何でも分かっていると思いこむからです。子どもの知恵袋はまだ小さいのです。小さな袋に目一杯の知識を入れ込んだら,もう分からないことはないと思うのは当然です。分からないことがまだある,そう思っているとき,その袋のすき間に希望を詰め込むことができます。情報は特異なことを選んで伝えていることを忘れてはなりません。

 明日に楽しみを持つことができれば,生きようという気持ちになります。決して魔の手の誘惑にのせられることはないはずです。このことは,極端な場合だけではなく普通の子育ちにおいて欠かすことができないのですが,実際には,逆の子育ちを強いられていることもあるのです。子どもに出来ないことがあるとき先行き不安だと追い詰められていないでしょうか?



【指針31-09:子どもに我慢をさせていますか?】


 ■子育て第9指針■
『苦あるから楽あり』

 結婚観の今と昔を比べてみましょう。今時の結婚は,幸せになることが当たり前という前提の上にあります。「幸せになろうね」と一緒になります。ところで毎日が何事もなくうまくいくことはありません。ちょっとしたつまずきが起こります。そうすると,それが不幸の種に見えてしまい,幸せであるはずの結婚に水を差します。こんなはずではなかったという先の不安がふくらんでいきます。

 昔の結婚は,苦労することが当たり前という前提で始まりました。「一緒に苦労しよう,この人とだったら苦労を共にできる」と一緒になりました。ところで毎日が全てうまくいかないということはありません。ちょっとしたよいことが起こります。そうすると,それが幸せの種に見えてきて,苦労の汗を爽やかにぬぐいさってくれます。よかったねと,一緒に喜びあうことができます。先の明るさが見えてくるようになります。

 子どもの育ちたいという意欲も,同じことが言えます。幸せを当然と思う子どもには不幸しか見えません。苦労を当然とする子どもには幸せしか見えません。どちらが本当に幸せなのでしょうか? よいこと探しをしていると,我慢することができます。わるいことを心配していると,我慢することはできません。すぐにあきらめます。やめた,といって投げ出します。幸せへの道から降りてしまうのです。

 子どもをほめて育てるためには,「いいことがあったね」と,楽しいこと,うれしいこと,よかったことなど,いいことをたくさん認めてやる必要があります。何も課題をクリアしたことをほめるばかりではありません。そう思っているから,ほめることがないと思ってしまいます。嫌々ながらでも掃除のお手伝いをしたおかげで,きれいになったということを一緒に喜んでみませんか。

 今は我慢しなければならないが,もう少ししたら楽しいことが待っている,そう信じられたら潔く我慢することができるのです。我慢とあきらめの違いは,楽しいこと,願いが叶うという約束などが待っているかどうかです。先に楽しみが見えていれば,喜んで我慢できるものです。

 育ちの途中である子どもには,できないことがたくさんあります。その悔しさを我慢して繰り返し練習に励むという耐性も,そのうちにできるようになるという楽しみを信じられたときに発揮されます。子どもにはいろんな形の楽しみが見えていることが必要なのです。



 子どもにとって大事なことは,弱くても出来なくてもいいと認められることです。それを認めてもらえなかったら今の自分を否定しなければなりません。否定された自分は育ちようがなくなります。自ら間引きする運命を突きつけられます。人は変わります。子どもは育ちます。今の姿が永遠に続くのではありません。この先どう変わっていくのか,自分の変わり様,育ちを信じることが大事なことです。そのためには,今の我が子を決して否定しないことです。

 自分の思い通りにならないとイライラするものです。そのイライラ感をどのように処理するかで,人の器量に差が出てきます。何とかしてやろうという意欲に転化できると先に進みますが,人のせいに転嫁したり,投げやりになると止まるか後退することになります。悔しさを「今に見ていろ」というバネにする切り替えが出来るためには,見えない努力から期待が生まれる経験をしておくことです。(以下次号)

 子どもをおんぶしたことがありますか? 赤ちゃんはだっこしますが,体がしゃんとしてくるとおんぶしましょう。だっこをされると,子どもは親と向き合い,安心を通り越して,息苦しくなります。大人でも向き合って見つめ合っていたら,短時間はいいのですが,やがて落ち着かなくなります。おんぶされると,子どもは肩越しに親と同じものを見ることになります。親がしていることを同じ目線で見て同じように体感することが出来ます。背中で育てるという意味です。


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