*** 子育ち12章 ***
 

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「第 32-01 章」


『子育ちは 自分のことと 子ども言う』


【助言32-01:子どもの先回りをするのはやめましょう】

 ■子育て12助言■
『子育ち第1助言』
〜急いては育てをし損じる〜

 枝があればぶら下がってみたくなります。穴があれば覗いてみたくなります。鳥が歩いていると追っかけてみたくなります。水たまりがあると棒で突いてみたくなります。影法師を踏んでみたくなります。無邪気な戯れですが,その他愛のない一つひとつが,この世界を知る手がかりになります。現場検証で手に入れた材料が多ければ多いほど,子どもの世界観は正確になります。いつまでくだらないことをしているの! その制止は育ちの邪魔です。

 動物園に行きます。お昼前になるとママがソワソワしてきます。早く行かないと食堂が混むという予測に急かされて,見学もそこそこに引っ張っていきます。子どもはもっとゾウさんを見ていたかったのに,という不満が残ります。気の済むまで見せてやりましょう。中途半端な気持ちになる癖をつけると,飽きっぽくなります。子どもが自分の中で完結するペースをしっかりと持つことができるようにし向けて下さい。

 どんなに幼い子どもでも自分が何をしたいかを決めたいのです。お店で何かをせがんで泣きわめくことがありますが,自分の欲望を満たすことで,楽になろうとしています。苦しいから泣くのです。少し成長すると欲しいと思っても勝手に取ることができないと弁えているために,自分を抑えなければならず,その葛藤にどう対処すればいいか分からないからわめきます。

 泣かれると仕方なく子どもの欲望を満たしてやります。葛藤が消えるから,ケロッとして上機嫌です。この対処はママの先回りに過ぎず,子どもに教えることは泣けば思いが叶うという手管です。ママはただ泣かれるのが格好悪いという理由でしょうが,子どもの育ちの歩みをスキップしているという意味で先回りしています。そんな場合は泣かせておけばいいと言われます。では,子どもの気持ちの中で何が起こっているのでしょうか?

 気持ちの揺らぎは大声というエネルギーの発散でかなり低下させることができます。いらついたときには,思わずバカヤローって怒鳴りたいですね。それが本当に言えたらスーッとするだろうなと思いますが,言えないのが余計辛いです。せめて子どものうちは言わせておきましょう。また,落ち込んで辛いときには思いっきり泣けば落ち着くということがあります。気持ちの発散で身体の力が抜ければ,その後では思いもよらず楽に気持ちを切り替えられます。

 子どもたちが泣かなくなったといわれています。泣けないというべきかもしれません。泣くことを禁じられていると,暮らしの中で感じる葛藤は閉じこめられていきます。気持ちの淀みがどす黒く蓄積し,ちょっとしたきっかけでドバーッと噴き出してきます。子どもたちが見せてくれる理解不能な行動に,大人はどう向き合えばいいのか戸惑っています。もちろん,子ども自身もどうしてそんなことをしでかしたのか分かっていません。なんとなくやってしまったということです。

 耐性がないという指摘も,根っこはつながっています。子どもにイヤな思いをさせたくないという親心が,甘やかしになります。結果的に余計な先読みをしています。子どもであればこそ,イヤだと思えることはたくさんあります。そのすべてを満たしてやることはできません。かならずどうしようもない局面に至ります。そこで泣くことができたら,その肩を優しく抱きしめてくれる人がいたら,我慢しようという決意が生まれ,ケリがつきます。自分でそう決める力が育っていきます。

 しつけの手段として,ほめると叱るがあります。良いことをしたらほめてやり,悪いことをしたら叱りますね。この至極簡単なことが意外と実行されていません。「〜したら」という部分が意識されていません。あからさまにいえば,行動が終わった後でほめたり叱ったりするということです。行動を決めるのは子どもに任せるのです。結果について正しく評価をしてやるのが親の務めです。

 念を押しておきましょう。多くのしつけが,子どもの決める前に発動されていませんか? 良いことをしなさい,悪いことはしてはいけないとしつけていませんか? 幼い頃は親の言う通りにしていれば間違いありません。でも,物心がつき始めた子どもには,相応しくありません。もう一人の子どもの考えるチャンスが奪われてしまうからです。指図通りに聞き分けのよい子に育ってきた子どもが,突然きれてしまうことがあります。ママの言う通りに育ってきたことを後悔するからです。

 人は他人に言われてしてきたことは,自分がしたとは思えないものです。育ちも一仕事とみなせば,言われるがままに育った自分は,自分ではなくて,ママに作られた自分であることに気づきます。自分はいったい何者という疑いが生じたとき,自分の存在が危うくなり,自暴自棄な破壊を自分に向けていきます。自分なんか壊れてしまえという切羽詰まった衝動です。親から逃亡して徘徊に及ぶ子どもたちは,自分探しをしようとしています。

 子ども自身がこうしようと考えて行動を決めることはとても大事です。親がちゃんとその判定をしてやることで,子どもは考えたことが正しかったか間違っていたかが分かります。たとえ間違っていたとしても,すぐには反発するにしても,考え直すというプロセスが可能ですから素直に聴くことができます。この繰り返しによって真っ当な考え方に導かれていきますが,何より大事なことはもう一人の自分がちゃんと考えたという経過です。

 走ったら危ないから気をつけなさい。その注意はした方がいいでしょう。多少は控えめにしようと考えるでしょうから,大事には至りません。転けたらちょっぴり痛い目に遭います。自分の考えが甘かったと修正できます。危ないからダメ。その強い制止があると,大丈夫と考えたことが丸ごと否定されますから,考えることをしなくなっていきます。実際に転けてみてはじめて,どうすれば良かったのか?と必ず考えます。

 よい子に育てようと先回りをすれば,その気持ちは子どもにはありがた迷惑です。自分に考えさせて欲しいと子どもは思っています。たとえ考えが足りなくても,それは自分のせいであり,納得できます。子どもに考えさせて決めるチャンスを与えること,それは親にすれば回り道でありまどろっこしいことです。忙しいからそんな悠長な暇はないという先走りをしたい事情も分かりますが,育てるということは手間暇の掛かることだとあきらめて下さい。




 子どもには子どもの世界があります。大人の目から見れば他愛のない世界ですが,子どもは子どもなりに自分の世界の中で生きようとしています。結構いろいろなことがあって大変です。四六時中親がついているわけにはいきません。生きるということは決めるということがついて回ります。朝起きるかどうか,昼は何を食べるか,歩くか走るか,自分で決めることができなければ動くことができません。生活の中にある決めるチャンスを子どもから奪わないでください。

 ところで,子どもの話を聞いていると,状況判断が全く甘くなっていることがあります。優先順位がでたらめで,事がうまく運ばないのは明白な場合もあります。そんなとき,子どもの幼さを正そうとします。結果が取り返しがつかなくなる場合は当然ですが,どうでもよい場合は任せてみることです。子どもの世界はままごとの世界です。学校も世間から隔離された教習所です。ゆっくりと世間につながればいいのですが,子どもを消費者と見なす世間もあるのは心配です。(以下次号)

 自分で歩こうとしない子どもは,扱いに困ります。自分で考えようとしない学生を相手では,授業が成り立ちません。授業は業を授けることですから,受けようとする相手の体制が整っていることを前提条件とします。聞く気のない相手には,何を伝えようとしても馬耳東風です。独り相撲は相撲にならないのと同じです。もう一人の自分が自分をコントロールして「さあ,聞くぞ」という体制に入れば,気合い十分の授業が始まるのですが・・・。


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