『子育ちは 心に届く 世話受けて』
【助言32-04:子どもの世話の手抜きはやめましょう】
■子育て12助言■
『子育ち第4助言』
〜小さなお世話・大きな信頼〜
子どもの育ちには安心が不可欠ですが,それは家庭に根を張るということです。親子の関係が信頼という絆になっていれば,外に向かってぐいぐい伸びていこうとします。日常的な生活の中で,小さなつながりを確かめていなければ,気持ちのすれ違いが生まれて不安が芽生えます。親子だから分かり合うはずということは過信です。夫婦関係と同じように,お互いに確かめあうという努力が必要です。
あるママの投稿です。隣家の子どもが幼稚園のとき,お弁当はいつも菓子パンだった。ある日,それを見かねた保育士さんが,「おかあさん,お忙しいでしょうがひと手間かけてやって下さい」と,一言連絡しました。翌日・・・『あんぱん』が二つに切ってあったそうです。まさかマジではないでしょうが,余計なお世話という開き直りとしたら品性が疑われますし,冗談にしても度が過ぎています。いずれにしても,すればいいという世話の手抜きです。
子どもの食事を心配する声が途切れることなく聞こえています。育ち盛りの子どもは,取りあえず空腹を癒せばよいという食事では済ませられません。単なるエネルギーの補給ではなくて,身体や神経系,様々な内分泌物質を形成する材料が不可欠です。機械が小さなねじ一本の不足で動かないのと同じように,わずかの大事な栄養素が不足するとき,心身の機能に不具合が現れます。難しいことではありません。多種類の素材を使った食事が与えられる家庭であって欲しいと願います。
元子どもの述懐です。小学生だった頃,友人の家へ遊びに行ったら友人が錠剤を飲んでいました。私が「何の薬?」と尋ねると,「セイチョウザイ」という友人の返事でした。当時クラスで2番目にチビの私は,母にねだったが買ってもらえませんでした。そのことがあってから,チビなのは母がケチだからとずっと恨んでいました。大人になってセイチョウザイは成長剤でなく整腸剤だと知ったときは驚きました。なんということでしょう?
ちょっとした思い違いですが,そんなことでまさか子どもから恨まれていようとは,親は思いもしませんね。親はちゃんと世話をしているつもりでも,子どもは世話をしてもらわなかったと思ってしまうことがあり得ます。子どもの思惑までは考えていられません。第一そんなことは無理ですが,すれ違いを減らす努力はした方がいいでしょう。セイチョウザイをねだられたときに,なぜ欲しいのかというわけをゆっくりと聞いてやっていれば,誤解も解けたことでしょう。
あるママのかすかな気づきがあります。2歳の娘さんが,教育テレビの『おかあさんといっしょ』のことをなぜか「おにいさんといっしょ」と言っています。ママがいくら訂正しても直りません。ママは考えました。確かにいつも一人で見てるから「お母さんと一緒」じゃないよね。悲しい気づきでした。テレビの前にぽつんと座って見入っている女児が,向こうの世界で楽しく歌い踊っているお兄さんとの一体感を持ってしまうのは自然です。そこに世話の手抜きが見えてきます。
こちらの世界でもママと一緒に歌って踊れたら,お母さんと一緒と実感することができたでしょう。子どもにとって親からの世話とは,単に自分のできないことを助けてもらう,たとえば,食事の世話などだけではなく,誰かと一緒に何かができることを証明してもらうことも含まれます。お手伝いをすることで一緒にできた,ママと一緒に歌って遊ぶことができた,そんなことがうれしい世話なのです。
気分をリラックスさせ,いらいらを解消するというサプリメントを愛用しているママがいます。6歳の娘さんがたまたまそれを見て,「ママ,それ何の薬?」と聞いて来ました。何と説明したらいいのか一瞬戸惑いながらも,「え〜とね,怒らなくなる薬よ」と答えたとき,即座に返ってきた娘さんの言葉は,「ふ〜ん・・・。あんまり効かないね」。まさかそんな言葉が返ってくるとは思いもせず,冷や汗をかきながら「誰のせいだ!」とイライラしてしまったママでした。台無し?
生活は雑務の連続ですが,時間を追った段取りに沿って処理されます。テキパキと順序よくことが運べば気持ちがいいのですが,不意の用事が飛び込んできたりして手順が乱されると,混乱が起こり,修復するにはかなりの手間が掛かってしまいます。イライラするから焦ってしまい,余計に手間取ったり,やり損なったりします。なんでこうなるの?と考えても詮無いことですが,ついつい怒りの矛先が不意の用事を持ち込んだ者に向かいます。そこに無邪気な子どもが立っています。
ちゃんと,きちんと,さっさとできない子どもがいると,ママはかき回されます。無駄な抵抗は止めてあっさりと諦めることです。できるようになるまでは,引き受けてやらねば仕方がありません。子どもの世話はたいへんです。たいへんだから,子どもが育っていけます。動物の子どもは簡単に何の世話もなく育っていますが,そんな育ちをしているから結局は動物止まりです。人は繊細で超高級な動物です。精魂込めて世話をされるから,親が犠牲的に関わるから,人に育っていけます。
6歳の娘さんの反撃をもう一つ紹介しておきましょう。ママに叱られた娘さんが,「おかあちゃんは何でいつもいつも怒ってばっかりなん?」というので,ママは「おかあちゃんは怒るのが仕事なんちゃ!」と答えました。すると,「会社、辞めぇ」と言い返されてしまいました。仕事をしているママは要らないという願いです。仕事で怒るということは,仕事で世話をしていることです。仕事で母業をしていることです。そんな母は嫌だと訴えています。
お母さんとは,拠り所です。愛情関係です。親の役割という言い方をする場合があります。それは親という役目を果たすこと,仕事に類する責任というニュアンスがあります。親子とは役によって結びついているものではありません。母にとっては分身であり,我が身と同じ存在です。子どもにとって「お母さん」とは,全霊でつながっている唯一の味方です。単純に親であろうとしさえすれば,それで十分です。それなのに,子育ての責任者といった役目柄を装おうとするからぎごちなくなります。
小学校での一こまです。国語の授業で太宰治の走れメロスが教材になりました。教科書にはメロスが懸命に走る姿(全身)の挿し絵まで丁寧に載っていました。一通り読み終わり,メロスについて気が付いた事,思った事を述べなさいという質問が出されました。その質問に対して生徒の答えは,「メロスは天然パーマだった」,「メロスは男なのにスカートをはいている」,「しかも超ミニだ」等というものだったそうです。人を表面でしか見ないように育っているのは,親子の親密な気持ちの交流を体験していないせいです。相手が何を思い感じているかという洞察が未経験のままに据え置かれています。それを教えるのはママによる心の世話なのです。
親は世間の万障を背負って生きています。毎日が大変なのです。子どもは気楽でいいですよね。それは大人の目で見るからです。子どもだって結構いろいろあります。人間関係も子どもなりに複雑です。おまけにどれも初めてのことが多いので,戸惑うことばかりです。それでも何とかしようとするのが子どもの育ちです。その前向きな気持ちを引き出すのが,親による背中からの励ましであり,大丈夫だからという支えです。
身体を育てているのが食であるなら,心を育てているのは言葉です。人になるのは言葉を獲得するからです。学びが大切であるのは,学びが言葉の摂取に他ならないからです。学校の学びはその一部に過ぎません。言葉が美しい人,言葉が豊かな人,言葉が正しい人,そういう目標を意識してみませんか。たとえば,人前できちんとお話ができる,そういう言葉の力を培うことが本当の学びです。言葉遣いを見れば,その人の器量が見えてくるのです。(以下次号)
誕生日には,ハッピーバースデー・トゥ・ユーと歌います。この歌は1893年にアメリカで出版された「幼稚園の歌物語」という本の中で発表されたものです。元の歌は幼稚園で朝子どもたちを迎える歌,グッドモーニング・トゥ・オールでした。後に,この歌に勝手に2番としてハッピーバースデーが追加された歌集が発表されました。誕生日の特別な歌ではなく,毎日のあいさつの歌だったのです。子どもの世話は日々の営みを大事にすることですよね。