*** 子育ち12章 ***
 

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「第 32-05 章」


『子育ちは 伝わる言葉 手探りに』


【助言32-05:子どもの言葉を遮るのはやめましょう】

 ■子育て12助言■
『子育ち第5助言』
〜子の言葉は異なもの味なもの〜

 身体を育てているのが食であるなら,心を育てているのは言葉です。人になるのは言葉を獲得するからです。学びが大切であるのは,学びが言葉の摂取に他ならないからです。学校の学びはその一部に過ぎません。言葉が美しい人,言葉が豊かな人,言葉が正しい人,そういう目標を意識してみませんか。たとえば,人前できちんとお話ができる,そういう言葉の力を培うことが本当の学びです。言葉遣いを見れば,その人の器量が見えてくるのです。

 ママが慌ててしまったことがあります。6歳の次男は言葉の言い間違えがとても多いのですが,ある日のことです。次男が台所で遊んでいた三男の様子を見ていたのですが,「○○ちゃんが"ねっとり"してるよ」と,隣りの部屋にいたママを呼びにきました。ん,ねっとり? 悪戯をして油でもかぶったのか!? びっくりして見に行くと,そこには熱を出して"ぐったり"とした三男がいたのです。次男の言い間違いを正すことなど忘れていました。

 ちょっとした言い間違いですが,弟の様子がおかしいということはちゃんと伝えてくれています。ねっとり? もしもママが何をわけの分からないことを言っているのと聞き流したら,大事なメッセージが無に帰したはずです。油を被った? それはママの思い違いでしたが,胸騒ぎを覚えたのはさすがに母親の鋭い直感です。そこから弟思いの次男の優しさを受け止めてやることもできました。「ありがとう」。そう言ってあげたら,優しさへの展望が見えてくることでしょう。

 スーパーマーケットでよく見かける母子の会話です。「ねえねえ、これ買って」,「これはラムネがいっぱい入ってるだけだからダメよ」。「じゃぁ、これ買って」,「これはだだのアメじゃない。ダメよ」。「じゃぁ、これは?」,「これはパイの中にチョコが入ってるだけ」。「これは?」,「これはチョコの中にアーモンドが入ってるだけでしょ」。お母さんはいったい何だったら買ってやるのでしょうか? おそらくすべてダメなんでしょうね。

 子どもの要求をまともに受けて,理由を言って聞かせながらいちいち拒否しています。子どもはこれがダメならあれをとしつこく責め立ててきます。根気よく受けているところをみると,このお母さんは優しいのでしょうね。普通だったら,三つ目になると「いい加減にしなさい」とガツンと言ってやるはずです。子どもの言葉を振り払うだけではベターではありません。なぜなら,繰り返すだけできりがないからです。子どもの気持ちを別の方向に上手に逸らしてやることです。

 例えば,モノの選択の良し悪しではなくて,今日はダメだけど明日なら,ということで時間をシフトするのです。欲を拒否するだけでは治まりませんが,時を移すことなら欲を持続できるので待つというしつけに転換することができます。約束というしつけにもなります。もっともママが守らなければなりませんが,それは嫌ですか? 要は気持ちを切り替えることです。考え方や見方を変えると,新しい展望が開けます。子どもの言葉を遮るのではなくて,生かしながら次につないでやりましょう。

 子どもが大きくなってくるといつの間にかママと話さなくのは,理由があります。それはママが「でもね,・・・」と話をひっくり返してばかりいるからです。自分のペースに持ち込もうとして,子どもの話を途中でご破算にしようとします。話しても無駄になるから,話さなくなります。話していることがママとの会話で当初の方向からずれたにしても,つながりながら展開していけば子どもは受け容れることができます。つながりを断たれることが分かっていれば,口は閉ざされていきます。

 両親と6歳の男児が道端の植え込みのところでもめています。母親が「何であんたはさっきからこんなにおしっこばっかりするの!」と言っていると,父親が「立ちションなんかしてないで家でして来れば良かったんだ!」とフォローしていました。息子は負けずに「だって僕,おしっこ貯めてるんだもーン」と返します。即座に母親の大声と激怒が追い打ちです。「何言ってんのッッ、貯めていいのはお金とかお菓子とか道で配ってるティッシュとか…そういうものだけなのッッッ!!」。父親はその剣幕よりも内容に驚き,居心地の悪い表情を浮かべるだけでした。

 確かに子どもの方が奇妙な理屈を繰り出しています。小生意気な減らず口というものでしょう。それに負けじと対抗するあまり,激情が噴き出して,母親の言うこともいささか失笑ものです。もしも父親が突っ込みをしようものなら,「どこが間違っているって言うの!!」と開き直られ,巻き添えを食うのが関の山です。目には目をという単純な応対ですが,大人げないですね。貫禄を示さなくちゃ,そう思いませんか? でも,そのときになればやっぱり言っちゃうかも。

 学校の三者懇談の席でのことです。中一の女生徒は二学期の成績がかなり落ちていました。先生から「どうしたの?」と聞かれて,「部活をがんばりすぎました」と理由を言っていましたた。懇談の最後に先生から「では,ここで三学期に向けてがんばりたいことを宣言してください」といわれた女生徒は,「部活をがんばります!」と力いっぱい宣言しました。親はもちろんのこと,先生もずっこけてしまいました。「違うだろう!」。

 子どもの気持ちが大人の思惑とは全く正反対に向かっているとき,呆気にとられます。そんなことは想定できないからです。その場の流れには,ある方向が前提とされており,それが共通理解されているはずです。三者懇談は勉学に勤しむためにあるという大人の側の前提は,子どもにはなかったということです。何にも分かっていないと嘆く場面はたくさんあります。ついつい言って聞かせたくなりますが,できるだけ子ども本人が気づくように誘ってみませんか? 言っても変わりませんから。

 ある学校での出来事です。男子生徒がタバコを喫煙したという理由で学校を停学になりました。その停学が始まった翌日,世界禁煙デーの標語募集で,その生徒の作品が入賞しました。学校では,先生も生徒もやはり経験にもとづくのが一番という結論に達したということです。普通であれば,教育的配慮という意見が巻き起こって,入賞の取り消しになったかもしれません。ひねり出された結論もどことなく苦し紛れの感が漂って,そこに皮肉な可笑しさがあるから伝聞されたのでしょう。

 子どもはいろんな程度の望ましくない間違いを犯します。何度かの間違いで素行の悪さというレッテルを貼り付けるのは,かなり酷です。標語の一つでも認められることで,立ち直るきっかけがつかめるなら? そんなチャンスを与え続けることが教育の理念です。ともすれば,難癖をつけて切り捨てていくパターンが横行しますが,子どもの育ちを見限ることになるということを忘れています。許しと励ましというのは,なんとなく生まれてくるものではないようです。そういったことは理想にすぎないと捨てるには,あまりに大事なことです。




 子どもは最後まで聞いてほしいといいます。最初に言い出すことは,子どもの内心を分かってほしいというメッセージです。それをきちんと受け止めてやれば,ちゃんと分かっているというもう一つのメッセージが出てきます。始めはわがままを言います。それがわがままであるということを分かっています。とりあえず言わずにいられないのです。受け止めてやればあく抜きができるようなもので,素直な子どもが登場してきます。

 話は変わりますが,通学合宿のキーコンセプトは,したことがないことはできないということです。表返すと,暮らしのすべてを自分の手でまかなう機会を与えないと,生きる基礎が育たないということです。この際に忘れてはならないことがあります。それは自分の手を使う具体的な経験を言葉で逐一表現することです。単に楽しかった,おもしろかったという感想ではなくて,米を研ぐ,千切りにする,布団をたたむ,添える,などの生活の言葉です。言葉を覚えることで身につくからです。(以下次号)

 子どもはおもしろいことが好きです。おもしろいは,面白いと書きます。面が白いというのは,どういうことなのでしょう。昔むかし,仲間が火を囲むように集まって手仕事などをしながら夜を過ごしました。一人が注意を引くようなことを言うと,一斉に顔があがります。燃える火に照らされて皆の顔が白く浮き上がりました。真っ白な顔が並ぶような打ち解けた状況を面白いと呼んでいたのです。家族の団らんが面白いことになるようにしたいですね。


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