『子育ちは 感動求め ひたすらに』
【助言32-10:子どもの感動を茶化すのはやめましょう】
■子育て12助言■
『子育ち第10助言』
〜油断大敵 子の突っ込み〜
人には感情があります。その針が大きく振れたとき,感動がやってきます。その感動と興奮をきちんと区別するようにしつけることが大切です。子どもたちが何か面白いことがないかと捜しています。面白いこと=興奮という形にしつけられると,道を誤りやすくなります。人を貶めて興奮するといった道があるからです。子どもが感動という感情のふれをしているときには,真面目に受け止めて,そのことをきちんと印象づけて励ますようにして下さい。
自称大変な音痴と言われるお父さんがいます。悲しいことに神様は私に音感とかリズム感とかを与えてくださらなかったと嘆いています。そんなお父さんにも,7歳の息子さんからは○○ってどんな歌だっけ?と聞かれることがあります。そこで,音痴なお父さんは歌詞を覚えてないので,「ラララ〜」とリズムだけを教えていました。ところがある日,いつものように「ラララ〜」と教えていると,とうとう息子さんに「お父さん,お父さんて,ドとかレとかミとかって,知ってるっ?」と言われてしまいました。お父さんはどう落ち込んでいいのかわからなかったそうです。
好きな音楽は小さな感動を呼び起こします。ちゃんと歌えるようになると,感動はより深くなります。何かができるようになることは,子どもにとってはワクワクすることです。歌のメロディを覚えるには,音符という道具の助けがあれば楽です。「ラララ〜」であっても耳移しで伝わるのですが,発声の時には音符の方が確実性があります。とはいえ,音痴ではなくても,音階で歌えるお父さんは数少ないのではないでしょうか? 楽器の一つも演奏できたらいいでしょうが。
お父さんは,今年36歳になる年男です。その話をお母さんとしていたら,娘さんが話に入ってきました。「お父さん,ネズミなん?」。「そうやで」。「へぇ〜,めずらしいなぁ」。「そうかぁ?」。「うちの周り,みんなトラやで」。トントンと進んできた対話が,ガクッとギャグに様変わりです。子どもには,別の意味でギャップがありました。お父さんは,「いやいや,あんたは小学校4年生。同級生は寅(トラ)か卯(ウサギ)しかおらんやろ…」と苦笑いです。
自分の知識とは違うものごと,珍しいことを知ったとき,不思議という感動があります。子どもの知識は,子どもの世界と深く関連しています。子どもたちの日常世界であるクラスは,とても特殊な世界だということですが,普段はあまり意識されていません。干支というキーワードが,その特殊性を浮き上がらせてくれました。子どもが自分の世界は特殊だということに気づく前に,外の世界の方が珍しいと感じるのは仕方のないことです。人は自分中心なのです。不思議という感動が新しい世界の認知に向かうチャンスです。
お父さんが小学3年生の息子の理科の宿題をみてやっていました。「いくつかのふしに分かれているのは,ア.頭,イ.胸,ウ.腹,のうちどの部分ですか?」という問題がありました。答えは腹ですが,息子さんにはそれがわかりません。とうとうお父さんが,「答えは"腹"だろー,お母さん見てみろ」と言ってしまいました。息子さんは思いっきり納得していました。生涯忘れないことでしょう。でも,お父さんは,余計なひと言のせいでどつかれて痛い思いをしたのは言うまでもありません。
そうか! 分かる瞬間には感動があります。「腹」と答を教えられただけでは,何の感動もありません。お母さんの腹という普段見慣れた例と結びついたとき,腑に落ちる感覚が納得を産み出します。理由とかわけとかは分かるためには必要ですが,それは類推や連想という形式になる場合がよくあります。子どもの疑問に答えるときに例えを引き出すことが多いのは,同じであるという納得を得やすいからです。それにしても,ママには気に入らない例えでしたが,子どもの理解のためです。
息子さんのお友達の幼稚園児が,不審な男の車に乗せられそうになるという事件がありました。心配になったお母さんは,早速息子さんに尋ねてみました。「もし,知らないおじさんに,車に乗せられそうになったらどうする?」。「ゆーかいされちゃうかもしれないから,はしってにげる!」。一応のことは分かっていると安堵しながら頷き,ついでのつもりで確かめてみました。「じゃあ,おじさんじゃなくて,きれいなお姉さんだったらどうする?」。「う〜ん,どうしよっかな〜。のってみようかな〜」。その返事を聞きながら,どういうわけか,お母さんはふっと「間違いなく夫の子だ」と思ってしまいました。
男の子にとっては,年齢に関係なく,きれいなお姉さんは最高の感動です? なにも,愛しい夫だけの専売ではありません。男は本質的にロマンチストであり,きれいなお姉さんは悪いことはしないと思い込んでいます。女であるママが,イケメンの若いお兄さんが悪いことをするはずがないと信じたいのと同じかもしれません? もっともこのような期待は宝くじほどのことで,こうあって欲しいという夢に過ぎません。期待に胸躍らせる,そんなうたかたの感動もあります。
3歳の息子とお母さんが夕食時の会話をしています。その日のおかずである魚を食べながら,「このお魚ママがつかまえたの?」。「そうだよ」。「すごいね〜ママ。泳いで捕ったの?」。ママはつい調子に乗ってしまって,「そうだよ〜」。息子は感動の目を輝かせながら,「ホントにすごいんだね,ママって。裸で捕ったの?」。ママは悪のりしました。「そうだよ〜〜」。「ダメじゃん,裸は! 水着着なきゃ。今度はちゃんと水着着てね!」って,叱られちゃいました。
男の子は,ママを大切に思うものです。ママを自慢できることはうれしいことであり,ママのすごいところを見つけるのは大きな感動です。だからこそ,いつもちゃんとしていて欲しいという気持ちが湧き上がります。ママの裸を自分以外の人目にさらすことは,男の目ではなく,息子として許し難いことと直感します。自分だけの素敵なママでなければ,そんな独占欲があります。たとえわが子とはいえ,男の子の前ではしたない振る舞いに及べば,憧れの女性像が崩れ去ります。ご用心を!
普段,充電式のハンディタイプの掃除機ばかり使っているお母さんがいました。たまには本格的な掃除をと,久々に重い腰をあげて,クローゼットから大型の掃除機を取り出しました。それをめざとく見つけた5歳の息子さんが目を輝かせて,「今日はそれ使うの!? 初めてだね!」とのたまうのです。痛いところをチカッと刺されたママは苦笑しながら,「初めてじゃないでしょ」と反撃したのですが,「そうだね,なつかしいね!!」。完全に見透かされていました。
子どもにとってのママ像は,ご飯の用意をしてくれたり,お掃除をしてくれたり,何やかやと家事をこなしてくれる大切な人です。それゆえに,自然とママのお仕事ぶりはとても気になります。今日はしっかりとしたお掃除をしようとしているんだ,ママガンバレという気持ちから,初心の緊張感を伴って感動を味わっています。でも,初めてじゃないというママの口ぶりに,ちょっぴり気勢をそがれます。それでも,今日は特別のお掃除というエールを送ろうとして,健気です。
興奮は自分にまつわることであり,自己満足に終始します。一方で,感動は社会的な価値につながり,他者とのつながりを濃密にします。興奮に偏れば友ができず,できても本当の友ではあり得ません。感動に酔うことができれば友は寄り添い,友情もついてくるでしょう。子どもがどんなことに目を輝かしているか,しっかりと見つめて,つたない感動であっても,その方向の後押しを心掛けて下さい。
お宅のお子さんはどんなお子さんですかと尋ねられたら,至らないところが次々にあげられることでしょう。こんなにいい子ですと言いたくても,遠慮して言わないのではなく,思いつかないのではありませんか? 親の目から見れば子どもは未熟です。それを弱点と見なされると子どもは困ります。親になっても大人として恥ずかしい部分を持ち合わせていることを自覚していれば,子どもの至らないところも温かく受け入れてやれるはずです。(以下次号)。
子どもはままごとをしながら暮らしのまねごとをします。ところで,ままごととは食事のまねごとのことです。ままはまんま,ご飯のことです。食事のまねごとですから,当然調理のまねも入ってきます。まな板も必要になります。まな=真肴と書き,副食の意味があり,具体的には魚を指します。まな板は魚をさばくための板なのです。野菜用は切り盤として区別されていました。今は裏表で使い分ける形になっているようです。