『子育ちは 自分ならばと 考えて』
【心象33-02:自分を他者に重ねるもう一人の子どもの育ち】
■子育ち12心象■
『子育ち第2心象』
〜人のふり見て我がふり覚え〜
※「おなまえは?」「ゆうきです!」「いくつですか?」「にしゃいです!」という問答ができるようになった息子。おじいちゃんにも質問。息子「おなまえは?」,おじいちゃん「ひろしです」,息子「ちがうでしょ!『おじいです』!でしょ!」。おじいでも一応名前はあるのよ…。(カイジュウの母)
日常の中での呼び名が,ゆうきであり,おじいです。もう一人の子どもは,自分をゆうきと呼び,おじいはおじいと呼べば事足りています。おじいが名前と思って当たり前です。ゆうきという名前と同じように,おじいにも名前があるという約束事は,もっと多くの人とつきあうようになって分かってくるはずです。「おじいの名前は何?」と尋ねるときがやってくるでしょう。そのときまで,おじいにはおじいのままで我慢してもらいましょう。
※幼稚園で毎日運動会の練習をしている3歳の娘。「どんなこと練習してるの? やって見せて!」とこちらもワクワクしながら尋ねると,笛を持ち出し,「は〜い、子供たち、みんな整列〜」。(先生になった娘のママ)
子どもたちは親や先生がしていることを真剣に見ています。もう一人の子どもが大人の行動を見て,自分を同じように動かそうとします。逐一まねをするのです。運動会の練習という身体の動きを,先生の動きとして見習っていきます。先生のするとおりにしていいのです。自分がどんなことをしているかという視点を持つことは,幼いもう一人の子どもにはまだ無理です。先生のまねをしている,それがこの時期の育ちです。
※キティーちゃんの足つきバルーン(地に足がつく)をもらった娘。ところがしっかり足が地につかず地上数センチ上をフラフラ。見かねた3歳の娘「この子,わがままだから,歩かないの。しょうがないわね。だっこなの?」。それは,あんたでしょ!!(あやや)
自分のことは棚に上げて,いい気なものですね。もう一人の子どもが自分のことを考えるまでには,もう少しの育ちが必要です。ママのまねをすることで,もう一人の子どもが他者の目を持つ練習をしているところです。やがて,このキティちゃんと自分が同じ立場であることに気がつくはずです。もう一人の子どもの目が自分に向くようになれば,「見られている自分」という意識が芽生えてきます。
※先日,娘(3才)がちょうどお風呂から出てきた時に電話がかかってきた。おばあちゃんからだった。「電話代わろうか?」と声をかけたら「ううん,いい。今まだ裸だから。よろしゅう言っといて」だと。おまえは本当に3才児か?(あ〜たんのパパ)
裸であるという状況が,人目を気にするきっかけとなり,もう一人の子どもは見られる自分を意識せざるを得なくなります。同時に,このような経験をすることで,もう一人の子どもは自分を離れて,他者の立場に立つことができるようになります。裸の自分と取り次いでいるパパと電話の向こうのおばあちゃんの複雑な関係を読み取っているのは,もう一人の自分です。しっかりと育っていますね。
※昆虫館に遊びに行った。3歳の娘に「コオロギが鳴いているよ」と教えてあげると,娘は「だいじょうぶ、パパもママもいるからね」とコオロギを慰めていた。ちょっと違うのよ…,と心で思う母でした。(グッピー)
鳴いていると泣いている,その区別は動物・虫と人間が違うという抽象的な概念を理解できるまではお預けです。鳴いている=泣いている=ないていると,音による理解,ひらがなによる理解をしている時期です。そのことは置いて,コオロギがなくのはさみしく不安であるからと,自分の経験した気持ちをコオロギに移し替えることができて,思いやりの基本能力を発揮していることを認めてやりましょう。
もう一人の自分が育ってくると,例えば,ママと自分は違うと気づきます。パパとママが仲良くしているとき,そこに自分は絡んでいないことを感じます。まだ頼らなければならない自分を知っているので,ひとりぼっちにされている自分を見ると不安になります。分離不安です。ときには,園に行きたくないという行動が出てくるようになります。子どもが育つためには,安心の場が不可欠になります。
子どもはこの世にいない不思議なものに興味を持つものです。河童をカワワラワと読みますが,それがカワワッパとなまり,さらにカッパになりました。通説です。お寿司のネタになったキュウリをカッパといいます。カッパの好物だからといわれていますが,そうではないようです。キュウリが育つ途中,先端に花がついている状態の形が,皿を頭にいただくカッパの姿に似ているからだそうです。キュウリの育ちをごらんになったことがありますか?