『子育ちは 自分を他者に 結びつけ』
【設問34-02:周りの人との関係を見るのは誰でしょう?】
■子育ち12設問■
『子育ち第2設問』
〜第三者としてのもう1人の自分〜
人に好かれる子ども。そんな子どもに育って欲しいですね。思いやりのある子どもに育って欲しいと願う声をよく聞きます。ところで,思いやりのある子どもとはどういう子どもだと思われていますか? 慎ましく遠慮がちに振る舞う子どもでしょうか? 外見上はそれでいいのですが,内面的なありようを見てやらないと,子育ちが辛いものになることがあります。子育ちはのびのびとしているのが自然だからです。
幼い間は自分の思いのままに行動をします。友達同士で遊んでいても,ぶつかり合います。思い通りにならないと泣き出します。思いが通らない悔しさのエネルギーを泣くエネルギーに変えて発散します。その後で,どうすればいいのかという問題をもう1人の子どもが考えます。行き詰まったときに,もう1人の子どもが目を覚まします。もし大人が子どもが泣いたからとすぐに対処してしまうと,もう1人の子どもの登場を抑えてしまうことになります。
貸したり借りたり,順番にしたり,自分がちょっと待てば解決することがあるでしょう。そのためには,自分の方がお兄ちゃん,お姉ちゃんであるといった相手との関係を意識するといったことがきっかけになります。我慢するというストレスを年長者である証として受け入れることができます。自分が年長者であるという自己認識は,子どもらしいアイデンティティになり得ます。このように自分と他者を相対視できるのは,もう1人の子どもの特質です。
社会性の基本である対人関係は,自分と他者を第三者の立場から冷静に眺めることのできる力を必要とします。それは,他者を自分と同じ人間であるという信頼がなければなりません。何の関係もない他人,他人がどうあろうと関わりのないこと,そのような意識が育っていると,他者が邪魔になったときに排除してもいいという無茶な考えに至ります。仲良くするということは,相手も自分と同じであると認める,もう1人の子どもにしかできないことです。
いじめを受けている自分をもう1人の自分は惨めな自分と思います。自分を大切な存在と認めることができないつらさがあります。一方で,いじめをしている方のもう1人の自分は,いじめている相手を自分と同じとは見てはいません。もう1人の子どもがしっかりと育つためには,人と人が支えあって生きているという暮らしの本質をきちんと子どもに納得させることが大事です。人を慈しむことができないと,自分を大事することはできません。
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※もう1人の自分と言い表している理由は,自分と他者の関係を客観的に眺めるために第三の立場が不可欠だからです。自分しかいなければ,自分を振り返ることができません。本を読んでいて,主人公に成り代わって異世界を旅することができるのも,もう1人の自分です。もう1人の自分が悲しい自分を労ることができるとき,他者も労ることができます。思いやりは,もう1人の自分がいるからできることです。
※子どもたちを見ていると,自分を大切にすることに意識が向きすぎて,人間関係が疎遠になっているきらいがあります。集まっていても気持ちをつながらせることがなく,自分の世界から出ようとしないことがあります。自分1人で生きているという風に思い込んでいるかのようです。皆の中の自分という自己認識が弱くなっています。他者を信じるという基盤がないと,住む世界が窮屈になります。身の回りの一つ一つの関係をきちんと結ぶ経験が必要です。
「学校に行けば皆から邪魔にされ,家にいれば小言ばかり言われ,私はどこにいたらいいのですか」。そのような訴えが届きます。どう答えようかと考える前に,その場にいたら黙って抱きしめてやりたくなります。いない方がいいと周りから思われているのではと感じると,闇の中にいるのと同じ不安に包まれることでしょう。なにかにすがりたくなるはずです。抱きしめてやることが,最も大切な支えになります。
「えっ,わたし?」というとき,指で自分の鼻を指さしませんか? 昔,鼻は自という字で書かれていました。目とノからできた自は,目の前に突き出たもの,つまり鼻でした。ところが,自分を指すとき鼻を指さしているうちに,自は自分の意味に変わってしまいました。そこで,自の下に鼻の穴を表す形をくっつけて,鼻という漢字ができたそうです。自分を指さしているのが,もう1人の自分なのです。