『子育ちは 共に生きる 人がいて』
【設問34-04:信頼しあう関係とはどういう形でしょう?】
■子育ち12設問■
『子育ち第4設問』
〜居て欲しい間柄〜
人に優しくできる子ども。そんな子どもに育って欲しいですね。のびのび育って欲しいと思いながらも,自己主張が強くて人との付き合いが苦手になっては困ります。自分を上手に出すことができないと,仲良くするという,社会で生きていく基本的態度が満たされません。もう1人の自分が自他の関係を意識した上で,自分をどのように生かせばいいのか弁えることが必要です。人とのつながりの基本的なパターンを考えてみましょう。
いない方がいい人。論外です。いてもいなくてもいい人。関わりがないので,本人はちょっとならいいでしょうが,じわっと不安になります。いてもいい人。おそらく本人は気楽かもしれませんが,人が寄りつかないので,落ち着かないでしょう。いなければならない人。周りの人から常に関わりを求められるので,面倒かもしれませんが,緊密なつながりがあります。人と協働して生きていくことができます。
子どもにとって,周りの大人はいなければならない人です。頼らなければならないからです。逆に,大人は子どもを世話をしなければならないので,手を取られます。園や学校に行ってくれると助かります。いない方がいい人と思ってしまいます。朝見送るときのママのうれしそうな顔を見ると,子どもは自分がママにとっていない方がいいと思われていることを勝手に悟ります。ママにとって自分はどんな存在かということを心配しているのです。
信頼関係は一方通行ではありません。子どもにとっては親から信頼されているかどうかは,とても気になることです。信頼という目に見えないものを,感じ取ろうとしています。自分と一緒に遊んでいるとき,ママの笑顔があることを待ち望んでいます。自分との付き合いをママが望んでいると思いたいのです。お手伝いをするとママが喜ぶからと言葉に出すとき,もう1人の子どもは頼られている自分を感じ取っています。
人を頼りにすることは,自己の保全のために幼児でも否応なく身につけます。しかしながら,それだけでは人と仲良くすることはできません。頼られる自分であることが求められます。生きることはお互い様です。私の世界という意識ではなく,私たちの世界という意識を持つことが社会観の源です。家族という私たち,同じクラスの私たち,共に助け合う仲間という関係を持つことができたとき,そこに信頼しあう関係が登場します。
いなければならない関係。それは時として,相互利益関係になります。もしどちらかが利益をもたらすことができなくなると,即座に破綻します。親子の間では,親の一方的な持ち出しです。子どもはお荷物であり必ずしもいなければならないとはいえません。そこで出てくるのが,いて欲しい人です。世話しなければならなくても,いて欲しい。そばにいてくれるだけでいい。その愛情を交わすことのできる関係が,人との信頼関係を産みだしてくれます。
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※社会における関係は,交換です。お互いの余ったものを足りないものと補填し合うことで,お互いの充足を目指すことです。生活圏の拡大と分業化が高度に進んだ社会では,お互いが直に交換できなくなってきました。そこに,相手をないがしろにしてカネしか見えない気のゆるみが迷い込みます。最近生産者の顔が見えるという販売法が出てきましたが,それは見える相手は信頼できるという期待があるからです。社会は人のつながり,社会性のしつけの原点です。
※子どもを愛しているからと,過度の物質的満足に浸らせてしまう過保護があります。子どもはモノに少し不足しているという状態に置いておいた方が,育ちが豊かになります。我慢のある生活は,なんとかしようという育ちを促すきっかけになるということ以外に,例えば,満たされたときの感謝や信頼という豊かな心を育み,人に対する優しさを自然にしつけてくれます。節度のないモノの豊かさは,人を利用することだけを覚えさせ,暴君を育てます。
人が生きるためには,衣食住という身体の生存に必要な物質的な要件があります。人として生きるためには,それだけでは足りません。精神的な面での生存があってこそです。心が満たされることです。人がただ生きている動物と違うのは,言葉という糧を手に入れたことです。それはお互いを分かり合えるというコミュニケーションを可能にし,記憶という能力を開花させ,学びを通して知恵を豊かにしてくれました。言葉を覚えてこそ,人になれるのです。
手塩にかけて育てるという言葉があります。手塩って何でしょう? 食生活が今ほど豊かではない昔,お膳を出すとき,塩を小皿に盛って出していました。食べる人がめいめいに味加減をするためです。そこで,他人任せにしないで,自分で塩加減をすることを手塩にかけるというようになりました。この自分でする,他人の世話にはならないという意味が強くなり,自分の手で育てるということにまで広がって来たということです。