『焦らずに 育ちをまとう 親だから』
■はじめに
育っているのは誰でしょうか?
「子ども」に決まっていると思われてはいませんか?
本当にそうなら子育ての問題はかなり無くなるはずです。
育っているのは,子どもの中にいる「もう一人の子ども」なのです。
ママから離れることによって,もう一人の子どもが誕生します。
第二の誕生によって人格という名のもう一人の子どもが・・・。
生みの親と育ての親という二人の親がいます。
第一の出産で赤ちゃんを産んだ親が生みの親です。
第二の出産でもう一人の子どもを産んだ親が育ての親です。
親になるのは簡単だが,親であるのは難しいと言われます。
生みの親にはなれるが,育ての親であるのは苦労するからです。
第二の出産は20年掛かるのですから・・・。
生みの親は子どもの第二の誕生をはっきりと意識しないことがあります。
何となく育ての親になっていきますが,どうしても中途半端になります。
ママの子育てから迷いを拭い去るために,育ての親へ脱皮しませんか。
【質問4-06:あなたは,お子さんを心から信じていますか?】
《「信じる」という内容について,説明が必要ですね!》
〇信じているパパ?
ママにとっては子どもが自分の子どもであるのは疑いようのない事実です。お腹を痛めて生んだという実績によって証明済みです。ところで,パパはわが子であるということは信じるしかありません。身に覚えがあるからわが子のはずだと思っています。パパはママを信じているから,わが子であると信じています。
そのわが子が第二の誕生をするためには,ママが一度子どもから離れなければなりません。ママが分身であるわが子にべったりとくっついていては,もう一人の子どもが生まれなくなるからです。ママの子離れを促すためにママを連れ合いに引き戻すことがパパの役目です。つまり,第二の出産はパパとママが夫婦としてもう一度よりを戻すことなのです。
一心同体であったママがときどき離れていくのに気がついて,子どもは不安になった自分を感じます。その不安を感じているのがもう一人の子どもです。ママと自分,自分を不安に陥れたパパ,そしてママとパパという関係に目覚めます。他者を意識し,自分とのつながりを見ることができるのは,もう一人の自分です。こうして,もう一人の子どもはパパとママが営む家庭という第二の胎盤に着床します。子育ちの始まりです。
仕事やその他の事情でパパがそばにいないという場合も多いことでしょう。でも,そのことはあまり厳密に考えないでください。子どもにはパパが必ずいるはずです。そのパパをママが大事にしているという気持ちを持つことが大切なのです。
・・・もう一人のわが子は夫婦共同による出産で生まれてきます。・・・
〇誰を信じる?
家庭はもう一人の子どもの胎盤だと言いました。それではへその緒に当たるものは何でしょうか? それはもう一人の子どもと親の間にある信頼という絆です。この親子の信頼関係が子育ちの場である,つまり子どもの居場所であるということについては既に触れておきました。ここで改めてお話ししておきたいことは,誰と信頼関係を築くかということです。
もちろん相手はもう一人の子どもです。ママに抱きしめられたら,自分は今ママに抱かれているとホッとします。もう一人の子どもが抱かれている自分を感じます。抱っこされている子どもが「ママ,重い?」と聞いてきます。もう一人の子どもがママの気持ちになってくれます。「大丈夫よ」とママが答えると,自分のためにがんばってくれるママのぬくもりをもう一人の子どもが受け取ります。
大きくなった子どもを抱いてやろうとすると,イヤだと逃げます。抱かれた自分が恥ずかしいともう一人の子どもが思うからです。子どもなりに自分の立場を意識できるのももう一人の子どもです。子どもの気持ちになって考えてみましょうと勧められることがあろうかと思いますが,もう一人の子どもがいることを信じてやることなのです。
・・・もう一人の子どもを見失わないように。・・・
〇ママの歌?
今家庭が置かれている状況はとても不安に満ちたものです。例えば,親子のふれあい時間という尺度で見れば十分とは言えないでしょう。共働きが一般化して,子どもの育ちにつきあっていられるほど暇なママは少なくなっています。忙しいという字は心を亡くすと書きます。ママが心を亡くしたら,子どもとの絆は結べません。ママの気がかりはこの点にあります。
暮らしを曲にたとえてみます。ママの暮らしは「行進曲風」ではありませんか? 起きてから寝るまで二拍子の連続で,いつも気持ちが前向きに進んでいないといけないリズムです。子どもはついていけません。まず,家にいるときぐらいはパパと「ワルツ」の三拍子で心優雅に過ごしませんか。家庭のリズムは緩急の変化が必要です。一時間バタバタしたら次の一時間はゆったりと流しましょう。子どもとは「バラード」を楽しみましょう。子守歌はゆったりしていますよね。
子どもと心を通い合わせようとするなら,それなりの場の設定をしなければなりません。それをするのはママの方です。ママがリズムを子どもに合わせてやらなければなりません。例えば,子どもの好きな歌を一緒に歌ってみませんか。あるいは子どもが知らなくてもママが知っている童謡を口ずさんでみてはいかかがでしょう。繰り返し聞かせていると子どもはすぐに覚えてくれます。なにより,ママの方がゆったりとした気持ちを取り戻せます。
・・・ママと一緒に歌う歌は気持ちの架け橋になります。・・・
〇子育ち待機違反?
「狭い日本そんなに急いでどこに行く」という交通標語がありました。同じように「子育てにそんなに急いでどうするの」と言わなければならないようです。「あれはしたの,これはすんだの,ぐずぐずしないで,さっさと,・・・」と,子どもはせき立てられます。急いでしているとやり損じますが,そうすると「慌てるからよ」と言われます。子どもも大変です。
このようにうっかり子どもの味方をすると,ママからは「そんなこと言っても仕方ないでしょ」と叱られそうです。しつけ役を背負わされて「この子はいつまでたってもできないんだから」と焦っているママの気持ちも無理ありません。
育てることは暇の掛かることです。なぜなら,育つのを待たなければならないからです。「育てるとは待つ」ことなのです。待つためには,育ちを信じなければなりません。待っていればきっと育つという信頼です。ママがロボットにプログラムを入力しているような錯覚を持っていると,思い通りにならない子どもは故障していると感じてイライラするかもしれません。ママの言う通りにできないのは,子どもが悪いからと責任転嫁してしまいます。
しつけという名の下で指図することに没頭すると,命令に即応しない子どもが不愉快になります。子どもの人権をないがしろにしているというタテマエもさることながら,もう一人の子どもの育ちを無視しているという,子育ち待機違反を犯しています。
・・・子育てとはもう一人の子どもの出番を信じて待つことです。・・・
〇白紙の心?
ママが取り込んでいた洗濯物を子どもが丸めて積み上げています。それに気付いたママに「何で余計なことをするの。くしゃくしゃになるでしょ!」と叱られます。子どもはいつもママが洗濯物を畳んでいるのを見ています。ママが忙しそうにしているので,その間ちょっとママのまねがしたかったのでしょう。
「洗濯物を畳んでくれていたのね。ありがとう。一緒に畳もうね」と,引き取ってあげませんか。単純にまねをしただけかもしれませんが,そのことをママがありがとうと受け止めてくれたことで,いいことをしているんだと分かります。自分の行為が思わない形で認められることで,もう一人の子どもは自信を持てます。技が未熟なことには目をつぶって,しようとした気持ちに温かい色を付けてやって下さい。
子どもはいろんなことをしでかしてくれます。でもそれは決してママを困らせようという積もりはありません。何も考えていない白紙の気持ちです。その白紙の心をよい色に染めてあげるのがママの子育てです。余計なことをするなと叱れば,白紙の心は踏みにじられるだけです。もう一人の子どもにママからの大きな二重丸つきのお墨付きを発行してほめてあげましょう。
・・・白紙を善意と信じることはママにしかできないことです。・・・
〇子は親の鏡?
ルソーが「人間は少なくとも二つの感情を持っている。それは自己愛と思いやりである」と言っているそうです。箴言風なことは早く生まれた人の言った者勝ちですが,要はその言葉をどのように理解し利用できるかということです。子育て羅針盤風に言い換えれば,もう一人の自分が自分に目を向けたときに自己愛,周りの人に目を向けたら思いやりになります。
自己愛と思いやりはバランスが大切で,自転車の左右のバランスに似ています。どちらかに片寄ると転けます。つまり,両方ともに必要だということです。自分を大切にできる人でなければ他人も大事に思うことができません。ここで,自分を大切にするとは,自分をあるがままに認める,成功,失敗,長所,短所,過去,現在,一切をひっくるめて受け入れる気持ちを持てることです。
自分を信じることができれば,子どもを信じることもできます。逆にいえば,ママが自分自身を信じていないと,子どもを悪い方に見て信じられなくなることがあります。
例えば,人とのお付き合いで仲良し風を装っていても,陰で何を考えているか分からないという気持ちを抱くことがあるかもしれません。人の裏表に敏感になってしまうのは自分にそのような覚えがあるからです。そのことに気付かないと,子育てだけではなく,ママ自身が辛いことになります。
・・・子育ては親の心を裸にすることがあります。・・・
《信じるとは,ママの七光で照らし出してやることです。》
○人間関係の中で,思いもしない言われ方をされることがあります。そんなつもりはないのにと,腹が立つやら悲しくなります。自分のことをそんな風に見ていたのかと,恨めしくなります。その相手が連れ合いであったり親であったりしたとき,その痛手は耐え難いものになります。最も自分を信じてくれているはずと信じていたのですから当然です。子どもにそんな思いをさせないでくださいね!
【質問4-06:あなたは,お子さんを心から信じていますか?】
●答は?・・・自信を持って,「
イエス」ですよね!?