*** 子育ち12章 ***
 

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「第 4-08 章」


『親めざし 親超えてゆく 子の育ち』


 ■はじめに

 育っているのは何でしょうか?
 どんな子に育って欲しいと願っていますか?
 親なら,「よい子」に育って欲しいと思いますね。

 育ちの目標としての将来像はどうでしょう?
 大多数の親が目指すのは,優しく思いやりがあり仲良くできる人です。
 育つのは人としての資質,能力,価値観といった生きる力なのです。

 「キレル人」とは,昔は能力の優れたことをほめる言葉でした。
 今ではとても近寄りたくないこわい人というイメージに変わりました。
 キレタ人がこわいのは,いったい何がキレタからなのでしょうか?

 キレタということは見境がなくなることです。
 社会人としてのルールが無効になる狂気であり,凶器になることです。
 わがまま,自分勝手,傍若無人,ジコチュウへの歯止めが壊れることです。

 生きる力とはこの負の力を抑え込む能力だけではありません。
 正の力が発揮されなければ,生きる甲斐がなくなります。
 そのプラスの力を親は子どもにどのように伝授すればいいのでしょうか?



【質問4-08:あなたは,お子さんに魅力を示していますか?】

 《「魅力」という内容について,説明が必要ですね!》


 〇学ぶママ?

 「勉強は済んだの?」と急かせているとき,ママはどんな思いを抱いていますか? 人を出し抜いて競争に勝つためにですか? それとも落ちこぼれないようにしてほしいからですか? 進学してサラリーマンになって・・・という将来像への道順でしょうか? 親が長寿であるために財産や家業を渡してやれない今,子どもにはせめて学力という資産を長期的に積み立ててやりたいという思いは自然でしょう。

 何かと問題視された学歴社会は,これからますます薄れていくことでしょう。学校で勉強した証明を武器に世間を泳ぎきることはできなくなっています。代わりに現れてくるのは学習社会です。常に学び続けていく時代に入っています。もう勉強しなくていいという卒業がなくなってきました。生涯学習の世紀なのです。

 情報社会がやってきたのは,単にパソコン技術の発達がもたらした偶然な結果ではなくて,社会の動きが本質的に求めてきたことだったからです。学習するための環境として渇望されていたのです。

 パパやママは学歴として「親学科」を履修してはいなかったでしょう。今こうしてメルマガを紐解きながら,学習している最中ですね。必要な知識をあらかじめ学習しておく暇はありません。必要なときに自ら学べばいいのです。ママが見せる学びの後ろ姿は,新しい時代の本物の学び方を子どもに示してやることにもなっています。今のママは素敵ですよ!

・・・試験のためではなくて,わが子のために学ぶ姿は魅力的です。・・・


 〇パパは得?

 「ぼくのおとうさんはとてもこわいです。でもときどきぼくとキャッチボ−ルをしてくれます。そんなおとうさんが大好きです」。子どもはこわいから嫌いとは言わずに,たまに遊んでくれることを覚えていて好きだと言ってくれます。ところでママはパパのことをどう思っていますか? たまにしか構ってくれないから嫌いなんて言ってはいないでしょうね?。

 ママは普段あれこれと子どものために気配り三昧ですが,たまに口をついて出てしまうきつい小言に「ママなんか大嫌い」と反撃されてしまいます。パパにくらべて不公平ですね。でもそれは子どもが抱いている父親像と母親像が違っているので,仕方のないことです。

 厳父慈母,父厳しくて母優しい,この対立したイメージを子どもは持っています。厳しいはずのパパが見せる優しさ,優しいはずのママが見せる厳しさ,その対比の中で子どもは親についてバランスの取れたイメージを作り上げていきます。その意外性が人間味の魅力としてクローズアップされるのです。

 ただ最近,父が優しくなって,子どもから「ママが二人いるみたい」と言われているようですが,これは父親としての存在感をないがしろにしてしまうことです。他方,パパが何も言ってくれないからと,イヤな小言を言わざるを得ないママの胸中は辛いですね。父厳しくて母優し,世間はそれでいいのですが,うちは違う? 子どもはそう思っているかもしれません。

・・・厳しくて優しい,優しくて厳しい,そのバランスが魅力です。・・・


 〇前向きという魅力?

 世の中のこと,周りの人のことでつい不平不満を言い募っているパパとママのそばで,子どもはイヤな気持ちを味わっています。他人のことをとやかく言っているご本人はどうなのと。中学生くらいになると,親を大人として評価しはじめます。

 楽しそうに家事をする母を見たことがない子どもは不幸です。世間を斜めにしか見ていない父の話を聞かされる子どもは不幸です。なぜなら,そこには主体的に生きている親の姿が見えてこないからです。生きる力のモデルであるはずなのに,その期待が裏切られるという不幸です。

 世の中には裏もあります。だからといって裏ばかりではありません。表があっての裏なのですから。かつてお天道様の光の下でのまっとうな暮らしと言われていたものが今でもあるはずです。それを親が自分の姿で子どもにきちんと見せておかないと,楽して金儲けという裏道に迷い込みます。棚からぼた餅という不労所得を待ちぼうけします。楽して生きることが楽しいという考え方には,人としての魅力はまったくありません。

 親は苦労した。だからせめて子どもには苦労をさせたくない,楽させてやりたいというのが親心だと錯覚している場合があります。三代目には家がつぶれるという故事はその結果なのです。苦労した親は苦労を否定することで自分の一生を自分で否定する暴挙に走っています。

 いい人生だったと自分で思わなければ誰が思ってくれるでしょう。自分を肯定するためには持っている力を存分に使ったあとの充実感が必要です。たとえそれが結果を出せず達成感ではなかったとしても,とても魅力的です。

・・・苦労をいとわない大らかさが,人としての魅力なのです。・・・


 〇実力?

 最近の子どもは知ることに長けています。親が知らないことを知っていることもあります。それが時として,思い上がりになる場合があります。実世界のことはまだまだ未体験なので,知らないことがあることに気がつかないためです。井の中の蛙です。

 自転車のタイヤがパンクします。パパがチューブを引き出して空気を入れ水に浸けてみます。ブクブクと泡が出てきます。空気の漏れているところが目に見えます。そばで見ている子どもは目を見張ります。小さなゴム板をゴム糊で接着すれば,パンクは繕えます。「パパすごい!」と見直されます。

 ママが調理をしているそばで子どもが見ています。大根をおろさせてみます。子どもはすぐに疲れます。ちょっと包丁使いをさせてみます。漬け物が同じ厚さに切れません。ママのしていることがどれほど自分には難しいことか思い知ります。見て知っているだけではできないということが分かり,「ママすごい」と感心します。

 生活に根ざした知識と技能があるということ,それこそが生きていく上で不可欠の実力であることを親が示しましょう。親しかそれを教えられないのです。普段の生活の中に潜む技にこそ魅力を感じさせるような後ろ姿を見せてやって下さい。

・・・生活者としての魅力は親が見せるものです。・・・


 〇地域からの信頼?

 社会生活を営む上で最も大切だと考えられていることは信頼です。誰も自分に危害を加えないという信頼をベースとして,何かあったら助けてくれるという信頼に期待を掛けて暮らしています。一方で,自分が誰にも信頼されなくなったらと想像すると,生きることができなくなります。

 お金を借りるとき,持ち家であるかどうか,どこに何年勤めているか,保証人がいるかどうか,いろんな要件が必要です。信頼してもらうということは大変なことなのです。これらのことはすべて,当人が地域,勤務先,肉親等といった周りの人との確かなつながりを持っているかどうかという確認です。そこで都会でぽつんと暮らしている人はなかなか信用してもらえないことになります。

 隣近所とお付き合いのない状態にいると,人から信頼を受けなくなるばかりではなくて,人を信頼しなくなります。周りの人を避けるようになり,場合によっては犯罪の標的として見たり見られたりするような恐れも出てきます。近頃頻発している金目当てや下着目当てのような悪意の対象にされて,不幸にも子どもが犠牲になったりします。

 無防備な信用は危険ですが,まず信頼しようとすることから人との関係ははじまります。その親による信頼ネットワークを子どもの回りに作っておいてやらないと,子どもの環境は育ちにとって不適切なものになります。隣人と仲良くなっていると,子どものピアノの音に怒鳴り込まれることもないでしょうし,さらに会ったとき「○○ちゃん,最近ピアノが上手になったね」と励ましてもらえます。好意は信頼から溢れてくるものです。

・・・子どもの味方を増やすのも,親としての魅力です。・・・


 〇わけあり?

 「おもちゃは片づけなさいと言ったでしょ」。子どもはママに言われて仕方なさそうにおもちゃを片づけています。同じようなことはたくさんありますよね。片づけるという言葉の意味は分かっているのですが,なぜ片づけなければならないのかというわけが分かっていません。子どもだからでしょうか?

 人の集まる場所には,「喫煙は灰皿のあるところで」と掲示されています。ところが設置してある灰皿を勝手に移動させたり,灰皿を持ち込んだりする大人がいます。ルールを自分流に曲げてしまうのは,わけを矮小化して自分の都合に合わせようとしているからです。矮小化するとは,ルールが不特定の皆のためのものであることから,不特定であるがために無視しても構わないだろうと考えることです。大人もわけが分かっていません。このような日常的なルール破りは,つかまらなければいい,叱られなければいい,自分だけではないという屁理屈など,とんでもない脇道に迷い込みます。

 狭い家の中ではおもちゃを片づけないと,つまづいて怪我したり,踏みつけて壊したり,邪魔になったりします。「みんなの迷惑」になるということが分かる年齢であればきちんと教えてやります。そのわけがまだ理解できない幼い子どもには,遊びの延長として片づけさせます。「さあ,おもちゃさんもお家に帰してあげようね」。自分の都合を持ち出さないように,皆のためとか,おもちゃのためといった「わけ」をしつけることが大事です。

・・・わけを弁えていることは,社会人としての魅力です。・・・



《魅力とは,自分をまわりとのつながりの中に生かそうとする意志です。》

 ○宮沢賢治の「雨ニモマケズ」を知っていますね。賢治は雨にも風にも負けなかった強い人だったと思ってはいませんか? あの詩の最後は「ソウイウモノニ ワタシハナリタイ」と結ばれています。負けた人なのです。でも,ナリタイという思いを失わないで生きようとするところに,読者は魅力を感じて惹かれています。未完成であることは決して恥じることなどではありません。子ドモニモマケズ パパニモマケズ ヨクハナク ケッシテイカラズ イツモシズカニ ワラッテイル・・・ソウイウママニ ワタシハナリタイ!?

 【質問4-08:あなたは,お子さんに魅力を示していますか?】

   ●答は?・・・自信を持って,「イエス」ですよね!?

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