*** 子育ち12章 ***
 

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「第 4-09 章」


『泣き疲れ 無心に返る ママの膝』


 ■はじめに

 子どもはなぜ育つのでしょうか?
 もう一人の子どもはなぜ育ちたいと願うのでしょうか?
 育ちへの意欲がなければ,子どもは育ちません。

 やる気のない子どもに歯がゆい思いをすることがあるでしょう。
 根性をたたき直すという乱暴なしつけさえ飛び出しかねません。
 不登校の子どもを前にして是が非でも学校に追い立てたくなります。

 意欲のない子どもに対して,親は何もしてやれない無力感を味わいます。
 その焦りが親をいっそう追いつめて,子どもに無理難題を突きつけます。
 そのような養育の袋小路からは早く脱出したいですね。

 育ちたいという思いは,子どもの中から湧きだしてくるものです。
 まずは,親の子育てでどうにかなるとは思わない方がいいでしょう。
 だからといって,なるようにしかならないと放置しては無責任です。

 育ちたいと思い続けられるように,親がしてやれることを見つけましょう。
 花の種には芽を出したいという機能が備わっています。
 その機能が発揮できるかどうかは,土地の豊かさに依存しています。
 


【質問4-09:お子さんは,ママの胸で涙を流していますか?】

 《「涙を流す」という内容について,説明が必要ですね!》


 〇泣き虫?

 人は生まれたとき,「オギャー」と泣きます。その後しばらくは,お腹が空いた,眠たい,おしめが濡れた,寒い,暑い,痛い,かゆい,寂しい,こわいと一日中泣いています。その都度,ママが寄り添ってくれます。そんな赤ちゃんの泣き声をママを呼ぶ声と思ってはいませんか?

 もちろん知恵がついてくればママを呼ぼうとするようになりますが,それは後知恵です。元々は,不快を感じても自分では何もできないから,赤ちゃんは泣くのです。

 戯曲「リヤ王」に「人は皆泣きながら生れて来る」という言葉があります。いつどこに生まれてくるかを何一つ選択できません。生まれて生きていく終着駅を選択できません。その間の乗車期間である寿命も限られています。人はもっとも大事なことを自分ではどうしようもないのです。だから,泣きながら生まれて来るというわけです。

 お店で見つけた欲しいものをママが買ってくれないとき,子どもが泣き叫びます。買ってくれないから泣く,買わせるために泣く,大人はそう受け取っています。ところで,ママはパパに泣き落としという手管を使いますか? それとも自分ではどうにもならないからただ泣きたくなるだけですか? どうにもならない無力感は泣くことで解消できます。気持ちのけりを付ける大事な処方箋です。

・・・泣きたいときは泣けばいいという場合もあります。・・・


 〇欠点?

 失敗は成功の元とか,窮すれば通ずとか言われてきました。人は考える力を備えていますが,それは何か不都合に直面したときに「どうにかできないか?」という形で作動しはじめます。快適な環境にいたら考えようとしないものです。せいぜいゲームを楽しむ程度のものです。

 赤ちゃんは呼吸し消化するという最低限の機能だけを持たされて,この世界に放り出されます。生きるということについては全く無能です。ほかの動物と比べれば未熟児と言ってもいいようなものです。10カ月以上の妊娠期間には母体が耐えられないからです。せめて手足が使えるようになるまでは,体外妊娠期間と考えた方がいいのかもしれません。

 無能な状態ですから泣くしかないということは述べましたが,その後には必ず何とかしようとします。歩こうとする,手で掴もうとする,食べようとするといったことのすべてが何とかしようとしている状態であって,それが育ちです。ですから,ちゃんとできないからといって止めさせてはいけません。家庭は教習所ですから,落ちたり,壊したり,ぶつけたり,こぼしたり,割ったりしてもいいと覚悟しておいてください。

 「うちの子は何もできない!」。それが当たり前です。ママがことさら子どもに「できないくせに」と引導を渡す必要はありません。せっかく子どもなりにできるようになろうとがんばっているのに,頭から冷水を浴びせるような仕打ちは親道に反します。できないことを「欠点」と評価しますが,それは未だ到達していないだけで,決して悪いことではありません。もうしばらくしてできるようになればいいのです。できるようになるまで,ハラハラしながらも黙って見届けてやって下さい。

・・・意欲を持続させるためには,決して貶したりしてはいけません。・・・


 〇弱虫?

 いじめっ子がなぜ育つのでしょうか? わが子がいじめられないかと心配する親は多いのですが,わが子がイジメをしないかと恐れる親はあまりいません。でも,イジメはいじめなんかしないという子どもを育ててこなかった結果です。今は幼くても,あと10年後にいじめっ子になるかもしれない,そうなればつまはじきされてここには住めなくなる,そんなことを考え出したら眠れなくなりますね。(あまり,気に病まないで下さい)。

 子どもたちがイジメはしないと意識していないから,イジメを見ても加担する方にまわってしまいます。それでは,いじめっ子の動機は何でしょうか? イジメられっこが無抵抗である,力が弱い,いい子ぶる,生意気だからと言います。どれもいじめられていいという正当な理由にはなりません。イジメられっ子にも理由があるといった妙な言い訳は言いがかりです。

 注目すべきことは,弱い子はいじめても構わないと考える愚かさ,無抵抗だからいたぶると言い放つ凶暴さです。そこには弱いことは悪いことという価値観が潜んでいます。いじめることで自分は強いと思いたい,そこにも強いことが良いことという同じ価値観が働いています。

 弱くて当たり前,弱くていい,弱いことは善し悪しとは別であること,さらに弱いものに手を挙げることは人として最も卑怯なことであるという正当な善悪感を持たせてやりましょう。そのためには弱虫な子がどうしようもなくて泣いてきたとき,ママは「弱くていいのよ」と抱きしめてやることです。

・・・弱さを問題視する養育観が,子どもにイジメの免許を与えます。・・・


 〇タイムラグ?

 英雄色を好むとはかつて浮気男の口癖でした。自分は英雄でもないのに! 英雄には弱点があると読む方が正しいのでしょう。歴史は夜作られるという言葉もありました。さらに勘ぐっていけば,犯罪の陰には女ありなど?(ごめんなさい! クマさんが言っているのではありません。念のため)。

 男の子は恐竜が好きですね。そんなものと同居するのはゴメンですが,見るだけならいいとしておきましょう。かつて地球上で強者として君臨した恐竜は,強いが故に滅びていきました。強さは度を越すと滅びる引金になります。恐竜は体長30〜40mですが,神経伝達速度が12〜13m/secとすると,感じるまでに数秒かかります。どういうことかというと,後発の哺乳類にかみつかれても反応が鈍いということです。そこで恐竜は更に大きく強く,そして更に鈍くという破滅への道を進んでいきました。強者は弱点を持つということです。

 成功したパラダイムには頂点があります。そこそこのところで抑止する事が次の発展につながります。子どもの育ちでは,この山谷を考慮しておくことがとても大事です。今大人の社会で強者として栄えているものは,子どもの時代になったら滅んでいるだろうということです。逆にいえば,今弱者であるものがやがて強者になります。大人はもう先がないので今を追いかけていればいいのですが,子どもは今盛んなものを追いかけるのはいい加減に止めておかなければ,将来には時代遅れになり適応できなくなります。

 奢れるもの久しからずと平家物語が始まるように,強きもの育つことなからずと養育物語をはじめましょう。早熟で完成してしまうと,つぶしがききません。育ちが終了しているからです。弱い自分を認めてもらえば,自分のペースで焦らずに育っていくことができます。

・・・未完である弱さこそが,適応する可能性の条件です。・・・


 〇自分を知る?

 親は何でも言うことをきいてくれると思わせたら,子どもは自分は特別な人間だと錯覚します。自分は親に可愛がられていると思うのであればいいのですが,自分は可愛がられるべきだとエスカレートするときジコチュウにはまります。子どもは可愛くて仕方がないでしょうが,子どもの望みを叶えてやることとは別にしましょう。例えば,スキンシップは充分にとって,モノを与えることはほどほどにすることです。

 優等生が入り込む闇があります。親の期待に応えているという自己愛を満たすために猛勉強をしますが,その目論見がやがて中学,高校と進む中で狂ってきます。そのときうまく方向転換をしないと深刻な自己喪失に陥ります。自分は優等生なのだという自己暗示が強いと,弱さを表に出すことができません。そこで弱い自分は自分ではないと否定することで取り繕おうと無理をし,結局自分を見失います。疑似自殺とでも言える自傷行為です。その先は弱い自分を閉じこめるために,現実的に閉じこもるようになるでしょう。

 世の中は自分の思い通りにはならないものです。自分にはできないことがあると素直に受け入れることは,育ちにとって大事なステップです。自分の限界を知ることが育ちへの意欲につながるからです。育ちの分かれ道があります。自分の弱さを知っていれば何とかしようという育ちの道に,弱さを否定したり無視したり見逃したりすれば育ちが封鎖された袋小路に迷い込みます。

 自分の弱さを知っていてもそれが悪いことだと思っていれば,見せかけでごまかそうとすることもあります。大人ぶってみせる非行道,やたらに格好だけに夢中になる流行道,どれも心底はどうせ悪い子なんだからという自棄を起こしています。自棄とは文字通り弱い自分を棄ててしまうことです。自分を空虚にし透明な自分という邪心に取り憑かれたりします。

・・・子どもが弱さに気付いたら,黙って涙を拭いてやって下さい。・・・


 〇カッコイイ?

 情報化,国際化,高齢化など〇〇化という化け物が横行しています。社会が化けているのですから,子どもも化けたがります。見てくれのカッコヨサにこだわります。判断の基準がカッコイイかどうかだけです。洋服にしても自分に似合うかどうかは抜きにして,洋服そのもののカッコヨサだけが関心の的です。どんなに化けても,それは育ちではありません。

 コツコツと地道に汗することはダサイと切り捨てられます。因みにダサイとは田舎い=タシャイ,つまり田舎風ということです。都会風がカッコイイという裏返しです。真面目な子どもは自分たちの尺度ではダサくて価値が低いはずなのに,大人から可愛がられるのは間違っていると感じます。価値観を脅かすのですから,憎い存在になります。憎いヤツにはイジメの制裁を加えてやれとエスカレートします。価値観の多様化が歓迎されているようですが,実のところその多様化とは憎しみを生み出すほどの軋轢と表裏一体であることを忘れています。子どもと大人の間の一種の宗教戦争なのです。

 目立ちたいという衝動が野放しになっています。目立つためには何をしてもいい,目立ちさえすればいいと思っているようです。だからカッコヨク化けようとします。注目すべきことは,化けた自分が本物と勘違いしていることです。虎の威を借りたキツネ,裸の王様という話そのまんまです。

 外面へのこだわりは,実は自分がカッコヨクないことを感じて,それを隠そうとしているうちに引き返せなくなっていることです。ですから,カッコヨクない自分を素直に受け入れることが大事だということをママがしっかりと教えて,子どもの心の負担を無くしてやりましょう。

・・・カッコヨサという貸衣装をママの前では脱がせましょう。・・・



《涙を流すとは,無力さの気づきであり,明日への意欲の泉です。》

 ○子どもが自分の不甲斐なさに直面したときは,必ず「おかあさん」とつぶやき涙を流します。弱さを思い知らされ,どうにもしようがない状態に追い込まれたとき,飛び込みたいと思うのはママの懐です。そこには何もありません。強いとか弱いとか,何かができるとか出来ないとか,良いとか悪いとか,一切の選択がご破算にされます。生まれてすぐにママに抱かれたとき,子どもには何もありませんでした。ママの懐とは子どもにとって再生の場なのです。

 【質問4-09:お子さんは,ママの胸で涙を流していますか?】

   ●答は?・・・自信を持って,「イエス」ですよね!?

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