『子育ちは 二度の誕生 無事済ませ』
【公式 41-01:子育ち第1式】
■子育ち12公式■
『子育ち第1式』
〜自我=自分+もう一人の自分〜
《解説》
母親に産んでもらった自分がいます。おっぱいを飲んで安らかに眠る赤ちゃんは,ママに頼らなければ生きていけません。あれこれをどうするか,決めているのは母親です。やがて,子どもは親の決めたことに「嫌っ」と逆らうようになります。自分のことは自分で決めるということです。決める自分をこのマガジンでは「もう一人の自分(子ども)」と言い表すことにしています。デカルトの「我思う故に我あり」の思う我,それをもう一人の自分とここでは言っています。自我は,自分ともう一人の自分からなると考えておきます。
《事例:親離れ》
親の言いなりになっていると,子どもの自立を妨げるので,親離れをしなければなりません。特に母子密着が普通ですから,母子分離ということが必要です。それを促すのが父親の出番です。子どもに密着している母親を,妻として取り戻す役割が夫としての父親の役割です。親が子離れをすることで,子どもは親離れをすることになります。親離れをした子どもは,親の代わりにもう一人の自分を産み出します。子離れとは,第二の出産と考えることができます。
《事例:決定権》
指示命令されると嫌なものです。人がもっとも大事にする権利は自己決定権です。親や大人から「○○しなさい」という指示を受けてばかりいると,子どもは言われるままになる気楽さに慣れて,言われないとどうすればいいのか分からなくなります。ママが言うからと行動を選んでいると,もう一人の子どもが育っていないことになります。もう一人の自分が自分の行動を決めることができないと,自立できません。過干渉を抑止して,もう一人の子どもに決める機会を少しずつ与えるように,任せていきましょう。
《事例:見立て》
もう一人の子どもが成長してくると,自分を相対的に見る目を持つようになります。いつもパパとママの間で寝ている4歳の娘、「サンドイッチだね。パパとママがパンで、わかちゃんがハム!」と言っていました。ある日、出張でパパがいなくてママだけで娘を抱っこして寝た夜、「今日はホットドッグだね。わかちゃんはそーへーじ(ソーセージのこと)!」。自分をソーセージに見立てることができるのは,離れた所からもう一人の自分が自分を見ることができるからです。
《事例:名前》
幼児に育ってくると,自分のことを名前で呼ぶようになります。自分を名前で呼んでいるのが,もう一人の自分です。人間は昔サルだった、ということを最近知った4歳の娘が、涙目で恐る恐る聞いてきた。「ねえママ…Kちゃん(自分のこと)生まれた時、サルだった?」。名前によって自分を認識することができて,さらにサルになった自分を思い浮かべることができるのは,もう一人の自分です。
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※もう一人の子どもを育てるのが,子育てです。生みの親より育ての親という言葉があります。自分を産んでくれるのが産みの親,もう一人の自分を産んでくれるのが育ての親と考えることができます。食べさせておけば育つという乱暴な言い方がありますが,それは目の前にいる子どもの育ちであり,もう一人の子どもの育ちは育てるという温かな関わりが不可欠になります。過保護や放任という問題は,もう一人の子どもの育ちに関わる問題なのです。
人の育ちは自己実現を目指すものですが,社会の中での自己実現という条件があります。社会で生きるということを目指しているはずです。もう一人の自分は自分だけを見つめてばかりはいられません。皆の中の自分という世界観を確立しておくことが社会性の基盤となります。ところで,時代の一部の流れとして,行き過ぎた個性重視が社会生活をないがしろにするもう一人の自分を育てています。放置すれば自滅を招くだけではなく,周囲を巻き込むモンスターになりかねません。
★落書き★
我慢という言葉があります。我をおごり高ぶるという字面の意味ですが,今では逆の意味で使われています。仏説では,人が持つ我は7個の慢心をするものであり,その4番目が我慢です。我ありとおごり高ぶる慢心で,自分は有能だとどこへでもしゃしゃり出る様を言っていました。その言葉が日本に入ってきて,我が強いのは負けん気が強いこと,負けん気が強ければ辛抱強いと思われて,我慢がよい意味で使われるようになってしまったということです。
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