*** 子育ち12章 ***
 

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「第 47-04 章」


『子育ては 信頼し合う 人づくり』


■子育て12チェック■

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『子育て第4チェック』

【信頼させていますか?】

●子どもは育つ中でいろんな新しい局面に出会います。未経験なことばかりですから,それに向かっていくことは大きな不安を生み出します。子どもが何かに不安を感じていても,やらなければという思いや,やってみたいという意欲を持てれば,何とか育ちの歩みは続いていきます。しかし,それには,大きな安心が背後になければなりません。親が見守っていてくれるという,親への信頼です。子どもにとって信頼できる親がそこにいることが大事なのです。

●プチ家出をしている女の子を補導して,「お家の人が心配しているよ」と言うと,「どうして?」と問い返されるそうです。心配するのが親という図式はもう描けなくなっているようです。親離れや子離れをすれば,お互いに用はないという冷めた関係が普通なのでしょうか? 子どもからたまたま同居しているだけと思われる親とは,どうなのでしょう? 信頼関係は,困ったときに頼るということだけではなくて,信頼を裏切らないという自己抑制にもなります。

●どうしてそうなるのでしょう? 子育てに関するイメージがいつの間にか変質してしまっています。子育ては園や学校に行かせるまで,という期間限定がなされています。学校に行っている間は,親は親であることを脱ぎ捨てています。忘れているのです。手を掛けることだけが子育てと思いこんでいるのです。世話を受ける,世話をする,そんな関係に親子関係を縮小しているから,世話が要らなくなると,親子関係は意味を失っていきます。子育ての子とは,いくつになっても親の子であるという子どものことなのです。

●親としての努めとか,役割といった言い方もあります。その言い回しに引きずられて,役割を果たしていれば親であるという短絡的な結論を何となく引き出してはいないでしょうか? 役割を果たすには,代わりは誰でも勤まるのです。役割とはもともとそういう普遍性を備えています。親の役割にこだわると,あなたでなくても構わないということになります。子どもに自分の親はこの人しかいないと思われたとき,親であることができるのです。親として信頼されるということです。

●親との間に余人に代え難いという絆ができると,もう一人の子どもは,「私は,このパパとママの子どもである」と思います。その確信が自尊心の核になります。自分は親に望まれている存在(wanted child)であるという思いが安心をもたらしますが,その上にさらに,自分がこの親の子どもであることを喜びとするとき,自尊心が芽ばえるのです。何も世間的に立派な親である必要はありません。信頼できる親でありさえすれば,それで十分なのです。

●信頼されるということを頼りがいがあるという風に言い換えるとしたら,大人である親はかなりの部分で子どもに頼られても大丈夫です。パパは何でも上手にできると,子どもは自慢しています。ママは私のことを何でもよく分かってくれている,不思議だなと感心しています。幼い子どもの信頼感は絶対的ですが,子どもが大きくなってくるにつれて,親への頼りがいは化けの皮が剥がれるように細くなっていきます。親にもできないことがあることを感づかれてしまうのです。でも,それでいいのです。

●信頼される親になるには,親自身が誇りを持つことです。人には生きる上で芯になるものが不可欠です。昔の人は,天に恥じないとか,お天道様の下とか,世間に顔向けならないことはしないとか,後ろ指を指されないとか,いろんな形で自分自身を律して生きていました。なにも昔風にすることはありませんが,親自身が何か守るべき信条を持つことが必要なのです。例えば,銀の道徳律と呼ばれている「人の嫌がることは絶対にしない」,そういったことで十分です。

●わがまま気まま,行き当たりばったり,状況に応じてコロコロ変わる,それでは信頼してもらえませんよね。ある程度の臨機応変は必要ですが,そればっかりではやはり,信頼されません。八方美人が信頼されにくいのも同じ理由です。人として守っているものを持っていないのです。例えば,どんなときでも,弱い者には決して手を挙げない,それは男としてのプライドでした。父親としての教育を怠ってきたせいで,男としての誇りを受け取り損ねた息子たちが,子どもやお年寄りに襲いかかっている現状があります。

●親は子どもを見守っている積もりでも,子どもは見張られていると感じるときがあります。参観の時のママの目は,どちらでしょうか? 意識して気をつけておかないと,ママの目は見張りの目になりたがっています。子どもの至らない点はすぐにいくつでも言えますよね。常日頃から,見張っているからです。見守りと見張りとはどう違うのでしょうか? 対象をどう思っているかという,見る際の前提が違っているのです。見守るのは味方です。一方で,見張るのは敵方です。

●親の思いは分かりようがないのに,それでも子どもが見張られていると察知するのはどうしてでしょう。日頃の親子の会話はどうでしょうか? 子どもが何かしくじったとき,「ダメじゃないの」と叱ってばかりいませんか? 自分のあら探しをしている目であることが一目瞭然です。子どもがいったんそう思いこんでしまうと,信頼の芽を自ら摘み取ってしまいます。どうせ私なんか信頼してもらってない,とふてくされるだけです。

●「大丈夫?」と,子どものことを気遣っていますか? それなら,普通です。普通であるという意味は,その程度のことであれば,通りがかりの他人でさえ言ってくれる言葉だということです。親らしい言葉掛けとは,「大丈夫,ママがついている」と受け止めてやることです。もちろん,ケースバイケースですが,いざというときはママがついているという言い方ができるようになってくださいね。それが味方の言葉です。

●子どもが思い描いている親への信頼感とは,親らしいことをしてくれたかということで判定されます。不始末をいっしょに片づけてくれる,親だから,親しかできないことです。子どもは親がいっしょに泥を被ってくれると信じたいのです。守るというのは,そこまでの覚悟が必要であり,それだからこそ,親とはありがたい存在になるのです。ママ自身,そういう親に守られて育ってきたのではないでしょうか?



 言葉を持ち,文字を持つことで,人類は人になることができました。知恵を生み出し蓄えること,社会生活という豊かな連携を手に入れること,文明や文化を紡いできたことなど,言葉を操る能力が基本にあります。その基本素材の品質が人としての品格を左右しています。どのような言葉遣いをするか,それが生き方の道を選ばせていくこともあるでしょう。子どものしつけで真っ先に問われるのは,子どもの言葉遣いです。

★落書き★

 祭りで神輿を担ぐ際の掛け声は「ワッショイ」でした。最近は,掛け声が「ソイヤ」に変わってきました。道路事情が関係しているという説明があります。1970年代前後から,神輿は警察の交通規制に従って運ばれることになりました。このとき「ワッショイ」よりもリズミカルで動きやすいということから,「ワッショイ」が逆さまになった「ショイワッ」が定着していき,やがて短縮化して「ソイヤ」に変わっていったそうです。


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