*** 子育ち12章 ***
 

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「第 49-02 章」


『子育ちは 自分で自分 励まして』


■子育ち12笑顔■

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『子育ち第2笑顔』

【得意な笑顔】

 夜道を歩いているとき,無灯火の自転車に驚かされることがあります。乗っている人はよく知っている道なので平気なのでしょう。でも,無灯火の自転車が他人に見えないことを忘れています。自分がどう見えるのかということを,もう一人の自分が見ていません。歩行者に対して危険であり,同時に車に対して自分が危険であるという,人との関係の中で自分を考えていません。
 「皆がしている」と思うかもしれませんが,皆ではなく,もう一人の自分が考えなければならないことです。思いやりというのは,相手の立場に立つことで,それはもうー人の自分にしかできないことです。自分と相手を同じ人間と思うもう一人の自分がいること,それが「心の豊かさ」なのです。

 教育とは可能性を引き出すことであると言われます。それでは誰が引き出すのでしょうか。親や先生が子どもの可能性を引き出すと考えるなら,それは子どもにとって迷惑です。子どもにとって,自分の可能性を引き出すのはあくまでも「もう一人の自分」なのです。私たちにできることは,もう一人の子どもを目覚めさせ,その育ちを支えることです。
 子どもはまず甘えることから育ち始めますが,やがてもう一人の自分が誕生し我慢しようとブレーキをかけます。我慢しなさいと言われてするのでほなく,我慢しようと自分で決めるのです。親は我慢への黄色信号を提示するだけで,もう一人の子どもがブレーキを踏もうと決めて,自分が実際にブレーキを踏みます。
 子どもの反抗も,自分にやらせて,ほっといてという意思表示であり,もう一人の子どもの自己主張なのです。叱る場面では,子どもも叱られることは納得していますが,人前で叱られますと,惨めな自分をもう一人の自分が見てしまい,自尊心が傷つけられます。そのとき反省は霧散してしまいます。「何だ,その目は」と,叱っている大人は怒鳴りたくなることがありますが,その目の向こうにいるのがもう一人の子どもです。もう一人の子どもをないがしろにした叱り方は逆効果になります。もちろん,ほめるときは皆の前でほめてやればより効果的です。

 前号と今号で述べておきたかったことは,私たちが育てようとしているのは子どもではなく,「もう一人の子ども」であるということです。「しなさい」と言う親と「しようと思っている」子どもとのすれ違いは,親が「もう一人の子ども」の決定権を侵害した所にあります。「しなくても大丈夫?」ともう一人の子どもに働きかけるようにして下さい。
 自殺とは自分を殺すことですが,その犯人はもう一人の自分です。死んではいけないと止めてくれるのももう一人の自分です。私たちは子どもに限らず,もう一人の自分によって生かされていると言えます。ギリシャ時代の「汝自身を知れ」という言葉も,もう一人の自分を目覚めさせよということです。

 子どもが自分の行動に満足した時,得意満面の笑顔を見せてくれます。他人には自慢にしか見えませんが,もう一人の自分が自分を精一杯ほめている時です。もう一人の自分が自分を好きにならなければ生きていくことができません。自分のことが嫌いになるとき,自分を捨てる,自棄になります。そうならないように,ことある毎にほめてやりましょう。



 悲しいことに子どもに対する虐待の報道が絶えません。多くが親によるものであり,親の言い分が「しつけのため」と聞こえてきます。痛みによる調教をしつけと勘違いしています。子どものしつけ方は,小学校,中学校,高校,大学といった学びの場で,教わることはありません。人を育てるという最も尊い行動に無知のままに臨んでいるという現状は恐ろしいことです。自然界の動物の子育ては本能的になされているようですが,動物園に隔離されると子育てできないといったことも聞くと,子育ては習うものと思わざるを得ません。

★落書き★

 車に乗っていると,道の譲り合いが必要です。そのとき,譲られた方がハザードランプを点滅させて,お礼の合図をします。ありがとうハザードといわれます。初めはドイツであり,昭和49年に日本に紹介されました。ドイツに視察に行っていた日本ハイウェイセーフティ研究所の職員が,ありがとうハザードに感銘し,トラックの業界紙で普及を呼びかけました。トラックは長いので手によるお礼の合図では見えないので,これはいいということで普及し,日本中に浸透していきました。


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