*** 子育ち12章 ***
 

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「第 5-02 章」


『母さんは 分かってくれる ボクのこと』


 ■はじめに

 この子育ち12講では,お母さんではなくて,ママという呼称を使います。
 ママには「若いお母さん」というイメージを何となく感じているからです。
 同時に,子どもが幼い時期には,ママと呼ばれていることが多いでしょう。

 親としての初期に,ぬかりのない子育てのイメージを掴んで欲しいのです。
 ただ,子育ては青年前期までの長期間に亘るものであるとも思っています。
 そこで幼児から中学生までの子どもたちを対象に話を展開するつもりです。

 提示されるチェック項目の内容は,子どもの年齢に応じて様変わりします。
 算数の計算ができますかといっても,内容は学年に応じて違うはずですね。
 お子さんの年齢に合わせて,読み替えてくださるようにお願いを致します。

 子どもが思い通りに育ってくれないという悩みは,親なら誰でも持ちます。
 子どもは子どもなりに育っていると諦めることが,子離れかもしれません。
 親にできることはどんなことなのか,それを見極めるのが大事なことです。



【質問5-02:あなたは,お子さんとの信頼関係がありますか?】

 《「信頼関係」という内容について,説明が必要ですね!》


 ●何処で育つのでしょうか?

 先週は「子どもは何処で育っているのか?」という課題を考えました。それは親とつながっている居場所だと分かりました。でも,それは必要条件であり,十分条件が揃ってはいません。植物が大地に根を張れば育つかというと,そうとは言い切れませんね。外界とのつながりという社会性も考えておかなければなりません。

 やせた土地では苗木は立ち枯れます。豊かな大地でなければなりません。それでは豊かな居場所とはどういうものなのでしょうか? 植物は大地から滋養を吸収し,幹や枝葉を太らせていきます。子育ちも心の素材を吸収し,豊かな心を太らせなければなりません。その素材を見つけましょう。

 子どもは成長するにつれて,自分の世界を広げていきます。もし,周りの世界が自分に悪意を持っていると思いこんだら,閉じこもって育ちを中止せざるを得ません。シカトされるとはそういう封鎖環境に追い込まれることです。多少の向かい風があっても,大局として世界は自分に好意を持っていると信じられたら,積極的に外界に向けて自分を解放し,育つことができます。

 居場所は周りの世界と連結していなければなりませんが,その条件は信頼関係です。内弁慶という性格があります。家の中では親子としての居場所を持っていても,外の世界に信頼感を抱けない場合には気弱になります。親以外の他者との間に人間的信頼感を持てる原型を用意するのが,親子の信頼です。

・・・信頼という素材を親から受け取っていないと,心根は閉じこもります。・・・


 〇いない方がよい人?

 子どもはママを頼りにしています。一方的な信頼関係であり,とてもひ弱なものです。たとえたった一度であっても母親から「お前さえ 生まなきゃ」と言われたら,子どもはいっぺんに育つことに絶望してしまいます。すくすくと育った苗がたった一夜の霜でダメになってしまうようなものです。

 そこまであからさまではないにしても,ちょっとした信頼への擦り傷が発生することがあります。もうすぐ夕食という頃が最も空腹になります。子どもが「ねえ,クッキー食べていい?」と言ってきます。ママは「だめ,もうご飯なんだから。お菓子ばっかり食べちゃだめ」と叱ります。その語調には「余計なことは言わせないで,あっちに行っていなさい」と邪魔そうな雰囲気が漂います。お呼びでない虚しさに襲われます。

 邪魔にされるとはいない方がいいと思われているということです。ですから,ママは,たとえば,「そう,おなかすいたの。クッキーおいしものね。でも,もっとおいしいものもあるのよ,ちょっと待っててね」と言い方を変えてください。まず空腹であることを認めてやれば子どもはそれで満足しますし,もう少し待てばいいと分かれば我慢できます。同時に子どもは邪魔にされないで済みます。

 信頼関係の基本は,お互いの思いが分かり合えるということです。分かろうとしないときは信頼が壊されます。子どもが何かにぶつかって泣いているときに,「ここが痛いのね」とさすってやりますね。痛さを分かってやれば,そこから大事な信頼感が育ちます。

・・・不注意な邪険さ一つで信頼はもろくも瓦解します。・・・


 〇いてもいなくてもいい人?

 忙しい家庭の中で,手の掛からない子どもが育っていきます。親はいい子だと思っているかもしれませんが,子どもの方はどうでしょう。親にとって自分なんかいてもいなくてもいいのではないかと思うかもしれません。一人ぽつんとなんとなく生きていると感じたら,自分は何なんだろうという「不安」が脹らんできます。

 いてもいなくてもいいと思われているのではと疑いだしたら,子どもは自分の存在を確保するために,嫌われないように気配りするようになります。いつも防衛的ですから緊張・ストレスの連続で,やがて心身をすり減らします。分ってもらえない苦しさを避けるために,心を閉ざしてしまうこともあるでしょう。自分という存在を透明にしていきます。

 家庭で挨拶していますか? そんなアドバイスをお聞きになったことがあるでしょう。挨拶して何の効果があるのかと疑い,家族の間でいまさら挨拶なんてと高をくくってはいませんか? 挨拶とは相手の存在を認知していることの確認です。挨拶しないとは,相手を無視することですね。自分の仲間であると思えば,挨拶するはずです。

 子どもには明るく挨拶の声を掛けてやって下さい。「あなたの存在をママはきちんと認めているのですよ」というメッセージだからです。挨拶をしないと「あなたなんかいてもいなくても同じよ」と言っているようなものです。寝ぼけた子どもは返事をしないかもしれません。しつけだからと無理に返事をさせる必要はありません。挨拶の形にこだわらずに,挨拶によって子どもに送っているメッセージの意味を大切にして下さい。

・・・挨拶を交わせる間柄は,信頼関係の入口です。・・・


 〇いてもいい人?

 高学年になると「あなたは勉強さえしていればいいの」と,生活から隔離されているような状態が現れることがあります。家族のそれぞれが自分だけの暮らしをしているクールな関係です。「パラサイトシングル(実家に寄生している独身若者)」は,このような関係の行き着く先です。一見自立しているようで,肝心の生活部分はしっかり寄生しています。「いつまでもいてもいいのよ」と甘えさせるから,生活能力のある大人にはなれません。

 いじめの人間関係も似ています。一応友達としてグループに取り込みますが,いつも境界域に排除しておきます。決していじめられっ子をグループから追放はしません。「いてもいいヤツ」としてグループと付かず離れずの所に縛り付けておきます。いじめを陰湿にしている要因は,「飼殺しの状態」においていることです。

 家庭でも「自分のことは自分で」というしつけを厳しくし過ぎると,家族であって家族ではないような「不安定」で曖昧な存在に追いつめてしまう危険性があります。裏返せば「自分は自分,他人は他人」と考え,人間関係を結べなくなります。家族であることの意味は,人は持ちつ持たれつの相互関係がなければ生きてはいけないという社会の基本を学ばせることなのです。

 ジコチュウな子どもたちが現れてきたのも,この育てられ方のせいです。自分のことは自分でするのだから,あなたも自分のことは自分でしなさいと,親の手伝いを拒否します。自分にとって何の得にもならない余計なことには手出しをしようとしません。「いてもいい人」の集まりは,何のつながりも持てず気持ちはバラバラで,およそ信頼関係などは持ちようがありません。ジコチュウが心配されるのは,信頼の欠如のためです。

・・・他人と関わり合おうとすることが,信頼関係のベースです。・・・


 〇いなくてはならない人!

 子どもは甘えることから育ちはじめます。十分に甘えさせてやりますが,いつまでも甘えん坊で依存していては困ります。そこで甘えを止めさせようとしつけをします。依存しないことが自立することであると思われています。確かに半分はそうですが,そのままでは中途半端な自立です。自立という言葉の定義は何かをしないことではなくて,何かをすることでなければ意味がありません。

 パパは自分が会社でも家庭でもいなくてはならない人物であることに張り合いを持っています。病に倒れ見舞いを受けるとき,「早くよくなって出てきてもらわないと皆が困っています」と言われればご機嫌がよいのですが,「後はちゃんとやっていますから,どうぞゆっくり養生してください」とでも言われたら落ち込みます。自分がいなくてもいいと引導を渡されるのですから,つらいのは当然です。必要とされていることが自立の証だからです。

 桃太郎のチームリーダーとしての手腕を見てみましょう。犬は猿とは犬猿の仲です。ところが桃太郎の家来として協力しています。どうしてでしょうか。犬は桃太郎と,猿も桃太郎とキビ団子契約でつながりました。犬と猿はそれぞれ桃太郎に協力するという形でつながっています。チームとしてのポジションを与えられ役割を担っています。共同体の中で責任ある役割があるということが,存在感を実感させてくれます。ケンカをする必要など失せてしまいます。

 共同体ではお互いに役割を担うことが大切です。言い換えれば,相手の役割に依存してもいいということです。お互い様なのです。忙しいママはお使いや手伝いなど,子どもに依存する,つまり頼ればいいのです。頼られればそれに応える,それができたとき自立したことになります。必要とされている,頼られている,いなくてはならない人と思われている,その相互依存関係が気持ちを「安定」させ,生活の充実感をもたらす信頼関係につながります。

・・・信頼関係とは信じて頼り合うことで結ばれていきます。・・・


 〇いて欲しい人!

 社会的な関係では,いなくてはならない人と自覚できれば十分でしょう。社会に役立つ人間になれというのがかつて男の子への期待でした。共同参画という流れも社会に貢献するという願いが醸し出した風です。しかしながら,一方で,定年になって役に立たなくなったらお払い箱です。高齢社会が重荷と叫ばれ,生きづらくしているのはなぜでしょうか? いなくてはならない人になることは,人間関係としては,まだ不十分だからです。

 信頼関係というのはあくまでも手段なのです。何のための手段かというと,幸せな人間関係をつくるためです。たとえ役に立てなくても,お互いそばにいるだけで「ほっと安心する」関係,それが家族から始まる人間関係です。弔辞で「惜しい人を亡くした」と見送る人は社会的なつながりのある方です。もっと役に立てたのにという気持ちです。肉親は「寂しくなります」と送ります。いて欲しかったという気持ちです。

 つわりのひどいママがいました。幼い女の子がいます。祖母が女の子をしばらく預かろうと申し出てくれました。でも,ママはある決意から断りました。数日前,トイレでしゃがみ込んでいたときのことでした。苦しさの中でふっと気が付くと,背中を小さな手が一所懸命にさすってくれていました。「この子といっしょに産もう」と思ったからです。幼児でも大人に力を授けられるます。大したことはできなくても,いてくれるだけでいいのです。

 子どもやお年寄りがいる家庭に温もりを感じる秘密は,いて欲しい人が中心にいるからです。あなたが傍にいるから幸せという想いが溢れているから,家庭が幸せになります。単なる気の持ちようだと思われるかもしれませんが,どうせなら幸せになれる方を選んだ方が・・・。

・・・傍にいるだけでホッとしあえる関係が,信頼関係の終着点です。・・・



《子どもに必要な信頼関係とは,何の屈託もない心の交流です。》

 ○親は常に子どもに対して親として君臨します。保護者という気持ちも強者の立場です。保護される弱い立場に長く浸かっていると,甘えに毒され,人をうまく利用しようというずる賢さだけが育ちます。自分はどうせお荷物なんだという思いから抜け出せません。自分がそばに行くとママが笑顔になることに気がつけば,そこでやっと自分の存在がママの心と対等になれたと思うでしょう。信頼関係は対等な関係でもあるのです。

 【質問5-02:あなたは,お子さんとの信頼関係がありますか?】

   ●答は?・・・どちらかと言えば,「イエス」ですよね!?

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