*** 子育ち12章 ***
 

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「第 5-05 章」


『ネコの絵を ほめて泣き出す トラの絵と』


 ■はじめに

 ママは精一杯がんばっているのに,子どもは思い通りに育ってくれません。
 ちょっと気になることがあると,どこか間違えたのではないかと心配です。
 我が子であるという思い込みが強くて,ママと子どもは一心同体なのです。

 地域の子育てについて話されるとき,よその子も叱ることが勧められます。
 それに対して必ず出てくる反論は,逆襲してくる親がいるという非難です。
 最近の若い親はいったい何を考えているのか!と責めることで落着します。

 若いママに必要なことは責められることではなくて,アドバイスなのです。
 経験の浅いママを,チャントできないからと責めるだけでは可愛そうです。
 地域の教育力とは,親子を共に温かく見守ってあげることだったはずです。

 子どもはすくすくと育つ運命を持って,ママの子どもとして生まれました。
 その育つ運命の手続きだけを手伝うように,ママは依頼されているのです。
 育ちの結果に対してママが全責任を負うべきだと考える根拠はありません。

 それなのにママの責任だと,ママ自身もまわりも思いこんでいるようです。
 子どもが叱られるとき,ママは自分の子育てが非難されたと感じ取ります。
 もっと気持ちを楽にするために,子どもの育つ運命を信じてはみませんか!



【質問5-05:あなたのお子さんは,自分で決めていますか?】

 《「自分で決める」という意味について,説明が必要ですね!》


 ○誰が育つのでしょうか?

 三つ目のテーマは「育っているのは誰ですか?」という課題です。もちろん子どもでしょ! そうなんですが,そうでもないんです。じらさないではっきり言いなさいと叱られそうですが,そんなに急かさないでください。思いもしないどんでん返しに会わせてご覧に入れますからお楽しみに!

 先々週号で,お約束していたことがありました。「体ばかり大きくなっても,いつまでも子どもなんだから」と親は思うものです。その子どもはどうして身体と一緒に育たないのでしょうか? 別の育ちをしているからです。別のという意味については再来週号で触れることにして・・・,と予告しておきました。ママは既に十分感じ取っているはずなのに,それを意識にまで高めていないのです。

 「我思う,故に我あり!」という哲学的な言葉を耳にしたことがおありでしょう。要するに「私があれこれ考えるから,私がいる」ということを言った人がいました。哲学の言葉は小難しく,持って回ったような言い方をして妙に気取っているようで,それがどうしたという軽い扱いを受けてしまいます。ただ,知っているのに分からないままでは業腹ですから,少しだけお付き合い下さい。

 話材としては少しきついですがしばらく耐えていただいて,「自殺」という言葉を取り上げます。自分を殺すというのですから,殺人です。犯人がいるはずです。犯人は誰でしょう? 犯人は「もう一人の自分」です。もう一人の自分が自分を殺すのです。もちろん,死んではいけないと止めるのも,もう一人の自分です。「我思う,故に我あり!」とは,「もう一人の自分がいるから,自分という者がいる」と言い換えることができます。

・・・いつまでも子どもというのは,「もう一人の子ども」のことなのです。・・・


 〇生きる?

 何かとても単純な間違いをしてしまったときなど,「自分で自分に腹が立つ」と思ったことはありませんか? 自分に愛想を尽かしているのは,もう一人の自分です。ここにも,もう一人の自分はいましたね。私たちはことさら意識をしていませんが,自分の中にもう一人の自分がいることを直感的に知っているのです。

 幼い男の子がカマキリを足で踏みつけて殺してしまいました。傍で見ていたママは「可愛そうなことをしちゃったわね。カマキリさんが天国に行けるように,お墓をつくって埋めてあげようね」と,手伝ってやりました。小さな手で掘った浅い穴の底に寝かせて,重くないようにそっと土を被せていました。男の子は何を思っているのでしょうか?

 明くる日のことです。幼稚園から帰ってきた男の子はすぐに庭に出ていきましたが,しばらくするとがっかりしたような様子で帰ってくると,ママに尋ねました。「ママ,カマキリさんが天国に行ってないよ。どうして?」。さあ,大変です。ママはしっかりと後始末をしなければ・・・?

 天国に行くのは魂ですね。魂は生きているときは身体に宿って,共に生きています。よく「天国から見守ってくれている」という言い方をしますが,亡くなった人の魂は,言い換えればもう一人の人でもあるのです。幼い心には羽根を生やしたもう一匹のカマキリが魂となって天国に登っていったと思いこませましょうか? 人は暮らしのそこここに,いろんな形でもう一人の人がいると考えて生きてきたのです。

・・・生きているのはもう一人のひとだと考えると,人の心が見えてきます。・・・


 〇第二の誕生?

 皆さんは,ご自分の来し方をずっと振り返ってみたとき,この世に誕生したときの感激を思い出せますか? おそらくプレイバックできる人はいないことでしょう。思い出せるのはかなりの年数が過ぎて以来のことのはずです。どうしてなのでしょうか?

 赤ちゃんから育っていくと,やがて物心がつくようになります。このとき「もう一人の子ども」が誕生していると考えて,「第二の誕生」と呼んでおきましょう。もう一人の子どもは自分の第一の誕生の時にはまだ生まれていなかったので,思い出しようがないのです。なぜなら,自分のことを思い出そうとするのはもう一人の自分だからです。もう一人の自分が見聞したことでなければ思い出せないのは当たり前ですよね。

 それでは,この第二の誕生はどのように進行するのでしょうか? 誕生前から子どもと密着をしていた母親が,誕生後数年経って世話の手数が減ってくる頃から,ときどき離れていきます。同体であった母親が分離することによって,否応なく残された自分に気づかせられます。誰が気づくかといえば,そこで誕生してきた「もう一人の自分」です。親離れ,子離れという母子分離は,もう一人の子どもの誕生という意味が隠されているのです。

 この気持ちの上での分離は「第二の出産」に相当し,父親の参加が不可欠です。父親の出番ということが言われますが,実のところ,それは母親を妻に引き戻す夫としての魅力を発揮することなのです。妻になった母親がときどき離れていく先にいる「アイツは何者?」と父親の存在を意識するようになり,父親と自分を対比することで自分意識が芽生えてきます。このように母子間の第二のへその緒を断つのは父親の役割なのです。もちろん蛇足ですが,夫婦で子どもを邪魔にすることとは全く違うということは分かっていてくださると思います。そこを勘違いすると虐待に迷い込みます。

・・・夫婦仲良くすることが,第二の出産を自然分娩にします。・・・


 〇子育て?

 ママが子どもを思う気持ちはひとしおです。健やかな成長を願ってしつけにも一所懸命です。あれはダメ,これはしなさいと,指図することがたくさんあります。幼いうちは必要なことですが,いつまでも続けるわけにはいきません。それは分かっているのですが,いつまでも手のかかる子どものままなのはどうしてでしょうか?

 ママの思うようには子どもはなかなかできません。「こんなこともできないの」とつい語気を荒げます。子どもは意気消沈して途中で止めます。「なぜ止める!」と追い打ちをかけます。子どもはどうしてよいか分からなくなります。こんなことが度重なると,子どもはママの顔色をうかがうようになります。「お母さんがイカンと言う」,「お母さんに怒られる」と言い始め,「自分のしたいこと」より,「母親がさせたいこと」をしなければとしつけられていきます。

 母親という背後霊が子どもに取り憑いてあれこれ指図ばかりしていると,依頼心の強い子どもに育ちます。依頼心が強いことを,自分がないと言いますね。子どもにすれば母親がもう一人の自分にすり替わって,育ちの邪魔をされていることになります。子育てとは,「もう一人の子ども」を誕生させて,その育ちを促すことなのです。子どもを育てようとするのではなく,もう一人の子どもが育つのを気長に見守るように気をつけなければなりません。そうすればだんだんと手がかからなくなります。

 何となく分かったが,では具体的に子どもにどのように接したらいいのかが知りたいと思っておられることでしょう。子どもに決めさせる余地を与えるようにすることです。子どもに考えさせて,子どもがしたいようにさせてやる,そんな機会を与えることです。例えば,おやつを決めさせます。同じものに片寄るなら,日替わりの制限だけを設けて,その中で決めさせます。どこか自分で考えて決めたと思わせる工夫を仕組んでください。

・・・子育てとは,もう一人の子どもが考えて決めるように促すことです。・・・


 〇もう一人の子どもの肥満化?

 かつて[3K」を嫌うという若者の特徴が語られ,すっかり定着してしまいました。3Kとは,キツイ,キタナイ,キケンな身体を使う仕事です。家庭で言えば暮らしそのものです。それは「手の世界」であり,生きている自分の世界です。それでは3Kのない世界はというと頭脳的労働であり,「目,耳,口の世界」です。3K嫌いとは自分の世界を忌避することに他なりません。炊事洗濯掃除などを余計な仕事と嫌っているのは,生きることからの逃避です。それを解放と錯覚したときから,子どもたちはおかしくなり始めました。

 知力偏重の弊害が言われています。知力は読んだり聞いたり見たりといった視聴覚を偏重します。実は「目,耳,口の世界」がもう一人の子どもの住む世界なのです。すなわち,知力の偏重とはもう一人の子どもの肥満化と言うことができます。頭で考えることには際限がありません。夢や空想などどこまでも広がっていくでしょう。それが悪い方に振れたとき,子どもたちの無軌道な行状に現れてきます。人を殺す体験がしてみたかったということを臆面もなく言ってのけます。視聴覚の世界が仮想空間であるというしつけを忘れてきた結果です。

 現実の世界は有限であり,そこは「手の世界」,自分が生きている世界です。普通の世界ですから面白くもおかしくもありません。だからといって,自分の世界を無視すれば,もう一人の自分が肥大化してしまいます。限りある弱い自分をダメなヤツと拒否すれば,自暴自棄になったり,自分を閉ざしたりします。自分から逃避すれば,他者までも否定し弱い者イジメに走ったり,責任転嫁する卑怯な屁理屈を持ち出したりします。

 自分を置き去りにしてもう一人の自分だけが育てば,必ずアンバランスな状態が現れて,生き方の蛇行に陥ります。子どもたちの迷える行動のルーツは,もう一人の自分の先育ち,おませさん状態にあります。その意味で「体ばかり大きくなっても,いつまでも子どもなんだから」と,もう一人の自分が後追い育ちをしているのは順調な育ちなのです。自分の世界を大事に思えるようなもう一人の子どもを育てましょう。

・・・生きるとは,自分ともう一人の自分の二人三脚です。・・・


 〇遊びの意味?

 子どもたちの望みは「ゆっくりしたいこと」という調査がありました。口癖は「疲れた」です。ちょっと何かをさせてもすぐ疲れます。親ははがゆい思いで尻を叩きます。なぜ疲れるのでしょうか? それは「させられる」からです。しなければならないと追い立てられるからです。人に言われてすることは疲れるものです。なぜなら,もう一人の自分が封じ込められて,操り人形状態だからです。

 では疲れないときはどんなときでしょう。「もう一人の自分」がしようとするときです。しなければならない授業は疲れ,したいと思ってする遊び時間は疲れません。遊びが大切だという意味は,もう一人の子どもを目覚めさせるからです。遊んでいるときの子どもが生き生きしているのは,もう一人の子どもが自分を楽しませているからです。

 子どもは甘える生き物です。我慢や忍耐が苦手です。「我慢しなさい」と命じて我慢させます。無理矢理ですから,何とか逃げ口上をひねり出そうともがきます。しまいには親は自分のことを分かってくれないと邪推しかねません。「我慢しようね」ともう一人の子どもに訴えるように語りましょう。言われてするのではなく,もう一人の自分が我慢しようと決めるようにし向けるのです。忍耐力が無いというのはもう一人の自分が育っていないからです。

 自立とは自分が立つと書きますが,立たせるのはもう一人の自分です。きついな,イヤだな,こわいな,面倒だなという自分の思いを,もう一人の自分ができることはやってみようと決めて,自分を引き出すことが自立です。自分を信頼できるようになることが自信をもつということです。自分が信じられなくて自信は持ち得ません。懸命に生きている自分をもう一人の自分が喜ぶように,親がほめて手助けをしてやることが育てることです。

・・・自分の面倒はもう一人の自分で見れるように任せましょう。・・・



《自分で決めるとは,もう一人の子どもが育つための必須要件です。》

 ○子どもに決めさせるようにと書いてきましたが,もちろん,そこには程度や限度があります。何でも子どもの勝手にさせるということではありませんね。子どもの責任の範囲でということです。子どもが決定を誤ったとき,その修復が子ども自身で可能な範囲に止めておくことはもちろんです。その見極めをすることが保護者の責任です。

 【質問5-05:あなたのお子さんは,自分で決めていますか?】

   ●答は?・・・どちらかと言えば,「イエス」ですよね!?

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