*** 子育ち12章 ***
 

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「第 5-06 章」


『背負われて パパの目で見る 散歩道』


 ■はじめに

 パパは忙しさにかまけて子育てを任せっきりになって後ろめたい気分です。
 済まないと思ってはいるのですが,ママからの責めにたじろぐばかりです。
 仕事で暇がないからしようがないだろうと,自分に言い聞かせるだけです。

 大切な妻をママにして独占する子どもに,ヤキモチを焼く暇もありません。
 いつの間にか母子連合が結成され,父は見捨てられるだけなのでしょうか。
 たまの休みを罪滅ぼしのためと家族サービスにこれほど尽くしているのに。

 暇を見つけては,かいがいしく子育てを分担している健気なパパもいます。
 お風呂に一緒に入るのはパパ,遊んでやるのもパパ,ママはのんびりです。
 子煩悩なパパと思っていたら,ママのご機嫌取りのポーズかもしれません。

 いろんなタイプのパパとママというカップルが,懸命に子育てしています。
 男女共同参画という流れを組み込んで,今風の子育ても始まってきました。
 そこに少し気になる徴候,二人のママがいるという子どもの声があります。

 共同とか分担という意味は違った役割を持ち寄ることだと考えるべきです。
 パパがママと同じことをして,ママの役割を軽減することではありません。
 そう考えていると,パパもつらいし,ママもイライラするようになります。

 子育ての場で今後最も考えなければならないことは,パパの役割なのです。
 パパは何ができるか,何をすべきかが,パパの存在理由でもあるはずです。
 パパが考えないと,子どもを産むだけに利用されて捨てられてしまうかも?



【質問5-06:あなたは,お子さんに他者の目を教えていますか?】

 《「他者の目」という意味について,説明が必要ですね!》


 ●誰が育つのでしょうか?

 前号では「育っているのは誰ですか?」という課題について考え,「もう一人の子どもが育っている」とお話ししました。子どもは二度生まれると考えることで,子育てのプロセスに現れる節目の意味が納得のいく形で理解できます。同時に,親による子育てと子どもの育ちのズレが何処にあるかも見えてきました。

 もう一人の子どもが育つことは子どもにとって必要な育ちですが,それだけでは十分ではありません。しつけなければなりません。わがままな子どもとは野放し状態,生まれっぱなしの子どもです。その子どもを上手に操縦できるようにもう一人の子どもを育てることがしつけです。我慢した方がいいともう一人の子どもが考えるようになれたら,我慢できます。自制というのは自分をもう一人の自分が制することです。

 人が生活するためには社会性を身につけなければなりません。社会性とは自分と他人の関係を視野に入れて,お互いにとって良いように暮らそうとする意志です。自分を客観視することが大事ですが,そのためにはもう一人の自分が他人も自分と同じように生きているという実感を持つことが不可欠です。

 「人の振り見て我が振り直せ」と言われるのは,自分を眺めるもう一人の自分がいるからできることであり,さらにもう一人の自分が他者の目で自分を見られるからできることです。ママが鏡の前で身繕いをするとき,他人の目で「鏡の中の自分」を見ているのと同じです。

・・・しつけの最大の難関は,もう一人の子どもに他者の目を持たせることです。・・・


 〇自分を見る?

 もう一人の子どもが生まれるまでは,子どもは動物的で本能のままに行動します。手当たり次第に手を出し,口に入れ,引っかき回します。お風呂に入れているときに水のかけ方が多すぎたり熱かったりといった,ママの扱いにちょっとした拙さがあると,ころっとご機嫌を損ねます。ですから,ママは目が離せませんし,扱いにも気をつかいます。

 赤ちゃんは機嫌のいいときは動き回ります。ソファの上に座らせていたら,ちょっと目を離した隙に肘掛けによじ上り,バランスを壊して絨毯にドスーンと落っこちます。赤ちゃんは直ぐには何が起こったのか分からず,一瞬キョトンとしています。もう一人の子どもはまだ生まれていませんから,自分が落ちたという理解はできません。びっくりしたという感じだけで,泣き始めます。

 言葉を覚える頃から第二の出産の安定期に入ります。しばらくの間ママの言葉によるもう一人の子どもの胎教を経て,自分のことを「○○ちゃん」と呼ぶようになると,もう一人の子どもの誕生です。この頃から,やっと言葉によるしつけが有効になります。しかし,まだもう一人の子どもは赤ちゃんですから,焦らずゆっくりとつきあう必要があります。

 おしめをしているときは,濡れると泣きます。不快感があるので出たことが分かり訴えます。言葉を話すようになると「オシッコ出た」と言ってきます。言葉を使うのは「もう一人の自分」ですが,もう一人の自分がまだ自分としっかりつながっていないので,事前のタイミングを感じられずに「出そう」とは言えません。出そうと言えるようになるためには,もう一人の子どもがいつも目覚めて自分を見守るまでに育つことが必要なのです。

・・・もう一人の子どもは遅生まれということを知っておいてください。・・・


 〇作文?

 作文や日記を書くときは,自分の気持ちや生活を思い出そうともう一人の自分が目を覚まします。子どもに作文が課せられる理由は,もう一人の子どもを目覚めさせられるからです。犯罪を犯した少年に更生のために作文を書かせるのも,もう一人の自分を目覚めさせ反省させるという目的があるからです。内省と言われている行為の基本です。

 ところで,作文は苦手という子どもが多いようですが,うまく表現できないという点の他に,何を書いていいか分からないというところで迷っています。大人は何かあるでしょうと言いますが,それほど簡単ではありません。日記をのぞくと,「朝起きて顔を洗って学校に行って,帰ってからゲームをした後,ご飯を食べながらテレビを見て,宿題を済ませて,寝ました」といった類の文章が見えます。

 人が何かを表現しようとするとき,「変わったこと」が中心です。普段と何も変わらないなら,何も話せませんし,書けもしません。どこかに出かけて珍しい体験をしないと作文できないと子どもは言いますが,確かにその通りだと思ったりすることでしょう。でも普段通りと思っていても,もう一人の自分が少し位置を変えれば,違ったものが見えてくるものです。

 普段の自分を離れることができなければ,自分が見えませんし,作文も書けません。「顔を洗ってから,何気なく庭に目をやると,昨日までは見かけなかった花が一輪咲いていました」という具合に,普段と違うようにもう一人の自分が「何気なく」視点を動かしてやれば,新しい発見に出会い,そこから作文が書きはじめられます。変わったこととは,視点を変えることで見つかります。

・・・もう一人の子どもの視点が自由であると,表現が豊かになります。・・・


 〇遊び?

 ママは小説を読むことがありますね。もう一人の自分が本の世界に入り込み,主人公のヒロインに同化しているはずです。決して取り巻きの登場人物にはなりません。逆境に健気に立ち向かうもう一人の自分は疑似体験をしていることになります。本を読むことで,もう一人の自分が目覚めて,主人公という他人になって得難い体験をします。読書はもう一人の自分を一回り大きく育てていると言うことができます。

 子どもはヒーロー遊びが好きで,自分がなったつもりで飛び回っています。もう一人の子どもが夢いっぱいの体験をしています。正義の味方として振る舞うことで,正義の意味や気持ちを身に付けていきます。可愛いヒロインとして,人のねたみや意地悪に耐えることで幸せが得られるという人生の機微を無垢な心にインストールしていきます。ヒーローやヒロインという他人の体験をしたもう一人の自分が育っています。

 ゲームやビデオの中には,ただ相手をやっつけるだけといった類の,短絡的な興奮要素だけのものがあります。耐性の育った青年ならば短時間のカタルシスとして意味もありますが,子どもには有害であることは明らかです。あっという間に刺激に吸い込まれて夢中になり,容易に抜け出せなくなるからです。もう一人の子どもは眠らされたままに置かれ,子どもの闘争本能だけが肥大化しかねません。

 もちろん,子どもには冒険的な遊びも必要です。ママがチェックするときは,ストーリーのあるものを選べばいいでしょう。戦うためにはそれなりの止むに止まれない理由があるということが示されていれば,神経質になる必要はありません。もう一人の子どもが自然に目覚め,ストーリーの中に入り込んで,理解するからです。恐いのは遊びであっても意味のない暴力シーンを楽しむことです。意味が無いということは,もう一人の子どもが関与できるよすががないからです。

・・・もう一人の自分は他者の体験を遊ぶことで育っていきます。・・・


 〇みんな?

 モノをおねだりするとき,「みんなが持っている」と理由付けしてきます。もう一人の子どもが持っていない自分は他人と同じでないと判断しているからです。このような他人と同じでありたいという意識は大切な社会性の始まりです。子どもながらも大切だとなんとなく感じているから,親との交渉に口実として持ち出してきます。

 言い寄られたママが「本当に必要なモノなら」と査定するのも,そこに社会的な必然性を見つけようとしているからです。「人並みに」という暮らしの知恵です。この人並みにという気持ちは行き過ぎたら害になりますが,よく分からないケースではとりあえず有効な指標でもあります。

 子どもは知らないうちに悪さをしでかします。もう一人の子どもがまだ社会的に未熟だからです。河原でビンを石垣に投げつけて割って遊ぶとき,後から河原に来る人に危険だと考える力が未発達です。自転車盗も持ち主の迷惑を察することができない未熟さのせいです。雪下ろしの苦労を思わずに,雪国に憧れるのも未経験からくる幻想です。

 「みんな」という範囲が狭いのです。身内や仲間だけを「みんな」と思っていて,「赤の他人」はみんなの中に入れていません。限定された「みんな」に止まっているから,社会性が偏狭なものに固定化し,問題行動に発展していきます。

 もう一人の子どもが「みんな」の目を持っていますが,それを他人の目にまで見開けるように育てなければなりません。昔の人が「かわいい子には旅をさせよ」といったのは,他人の目を持つために多くの人との関わりを体験させることだったのです。

・・・見ず知らずの人もみんなの中に含めることが社会性です。・・・


 〇お互い様?

 夜道を歩いていると無灯火の自転車が音もなくすり寄ってきて,一瞬びくっとさせられます。車での帰り道,目の前にいきなり自転車が現れ,はっとさせられます。自転車に乗る人は勝手知った道なので,灯火なしでもこわくはないのでしょう。しかし,歩く人に対して身を隠しているので加害者になる可能性,ドライバーに対して陰のようになっているので被害者になる可能性を考え及んでいません。自分を見る他者の目を開けていないからです。

 思いやりは相手の立場になって考えることであり,もう一人の自分がすることです。自分を大切に思うのはもう一人の自分であり,他者の目を持つもう一人の自分が他者も同じ人として大事に思うのです。思いやりを受けた場合も,「ワザワザ」という相手の立場を考えられるから心から感謝することができます。人が人間らしくなるには,もう一人の自分が他者の中に自分を見つけられるようにならなければならないのです。

 お店に行くと子どもは好奇心からあれこれ商品に触ります。品物によってはお店の方は嫌な思いを我慢させられています。乗り物の中で子どもは退屈して動き回ります。隣の方は多少大目に見てくれていますが,静かにしてくれないかなと思っています。子どもを見る周りの目はそれなりに温かいのですが,そこには暗黙の条件があります。

 公の空間ではお互い様という了解が働いています。傍若無人という言葉がありますが,若者の傍には人がいないと書かれます。すなわち,周りにいる人をヒトと思っていない無礼さを意味します。お互い様とは,ヒトに気遣いを見せて,自分に遠慮というブレーキを掛けることで成り立ちます。ヒトの傍では自分の行動を徐行させるということです。「止まらなくてもいいから,すこし控えめにして」,それがお互い様への礼儀です。

 ママが「おじちゃんが恐い顔してるから,やめなさい」と注意しています。そんな注意の仕方は間違っていると思っていませんか? 他人のせいにするのではなく,ママが自分の判断で注意すべきだというわけです。それは確かに望ましいことです。でも,おじちゃんという他人の目に気付かせているのですから,必ずしも間違ってはいません。それでいいのです。見ず知らずのおじちゃんが悪者になってしつけをする,それが社会による子育てだからです。ママだけに理想を求めるような窮屈な子育てから,そろそろ抜け出しませんか。

・・・他人の目をほどよく意識することが礼儀をしつけてくれます。・・・



《他者の目とは,もう一人の自分が社会化するという意味です。》

 ○子どもはぬいぐるみや人形,小動物を可愛がります。その様子を見ていると,世話ぶりはママにそっくりです。ママになったつもりで,自分をぬいぐるみの立場に置いています。自分を相対化できるのは,もう一人の子どもが育っている証拠です。そのときのもう一人の子どもの目は,まさにママの目だからです。子どもが最初に獲得するのは,ママの目です。

 子どもに話すときには「ママはこう思う」と自分メッセージの形にしなさいと,アドバイスされたことがあるかもしれませんね。もう一人の子どもはママになったつもりで,自分に言い聞かせることができます。もし,「しなさい」と直接に指示されたら,もう一人の子どもは出番を失います。ママの目をまねさせることは,皆さんが想像する以上にもう一人の子どもの育ちにとって大切なことなのです。


 【質問5-06:あなたは,お子さんに他者の目を教えていますか?】

   ●答は?・・・どちらかと言えば,「イエス」ですよね!?

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