*** 子育ち12章 ***
 

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「第 5-07 章」


『傘マーク ママの隣は 誰だろう』


 ■はじめに

 脚本がよくないとよい芝居はできないものだと役者が語るのを聞きました。
 演劇の世界には全くの素人にも,そうかもしれないと思わせる言葉でした。
 建築家でもずさんな設計図ではちゃんとした建物は建てられないでしょう。

 近頃の子育ては外注化されている,という指摘を耳にすることがあります。
 保育園,幼稚園,学校,塾などの先生たちに任されている傾向の心配です。
 専門家に依頼した方がよい結果が得られるという期待があるのでしょうか?

 子育てという大事業を請け負っているママは,棟梁ということになります。
 大工さんや左官さんや建具師さんたち専門家を束ねるのが棟梁の仕事です。
 学校の先生たちは高々数年間しか大切な我が子と関わることはできません。

 専門家に扱い回されても,全体を見る人がいないと品質保証はありません。
 大丈夫という太鼓判を押せる責任者は,終始見守り続けてきた人なのです。
 地鎮祭から落成まできちんと一人の棟梁が見届けてるから狂いが出ません。

 ママがよい脚本家,よい設計者となり,育ちを見届けなければなりません。
 よい脚本とは,細々とした指図がしっかりされているものではありません。
 演者である子どもの育ちを十分に織り込んだトータルイメージの構築です。



【質問5-07:あなたのお子さんは,能力の意味を弁えていますか?】

 《「能力の意味」という内容について,説明が必要ですね!》


 ○何が育つのでしょうか?

 4番目のテーマは「何が育つのか?」という疑問設定です。生まれたままの状態でいいかというと,やはり大きくなってほしいですね。たくさん母乳を飲んで身体が育つように願います。やがてママは別の育ちをいつも心のどこかで気にするようになるはずです。座れるようになり,歩けるようになり,しゃべれるようになり,着替えられるようになり,自転車を扱えるようになり・・・,といった能力が一つひとつ身に付いていくことです。

 能力とはできる力ですが,何ができるかということが大事です。一言で表すなら,それは生きる能力であると言うことができるでしょう。将来子どもが自分で生きていくために学力を付けてやらなければという親の思いも,学歴社会が産んだ生きるための能力であったのです。しかしながら,このような意味での学力は試験に解答できるというだけの特殊な能力であり,それはけっして生きる能力ではありませんでした。

 人が生きるということはどんなことか,具体的に数え上げればきりがないでしょう。ただそのパターンは決まっています。自分の周りの世界とうまく関わることです。相手は機械であったり,自然のものであったり,人であったり,生き物であったりしますが,それぞれに対してどうつき合っていけばいいかということです。

 臨機応変に直面する環境に相応しい行動ができる,つまり適応能力が育てば生きることができます。状況を的確に判断し,自分がやるべきことを見出し,その達成に向けて力を発揮する,そういうことができればいいのです。人に備わっている潜在的な機能を上手に発揮できるようになることです。子どもが持っている可能性というのは,生きる力が育つ可能性なのです。特別な能力を引き出す可能性は,二次的な結果に過ぎません。

・・・生きる力を発揮できることが,能力の意味です。・・・


 〇力の基本形?

 力として最も身につまされているのは,金の力です。力の例題として考えてみましょう。お金は有るところから無いところに動くときに,力が発生します。お金持ちとはお金を使う人のことで,溜め込んでいる人はただのケチにすぎません。水も流れるときに力を生みます。つまり,力とは何かが高い方から低い方に動くときにしか現れません。何かが減ること,つまりお金の出し惜しみをすれば無力なのです。

 同じように,知力は知識がある所から無い所に向けて使われるときに現れる力です。簡単に言ってしまえば,無い所を潤すこと,他の役に立てるときに力が出てきます。「力を出せ」と言いますね。外に向かって持っているものを出せる,出せるものを身につける,その総体が能力です。ちょっと抽象的な説明になってしまいました。

 学校と塾の違いを考えてみましょう。勉強して知識を蓄えるところまでは同じです。塾では試験をして自分の点数のために知識を答案用紙に向けて出させます。友だちは競争相手ですから,自分の知識の量を秘密にします。「昨日はゲームで遊んじゃって,全然勉強してない」とか言って,友だちを牽制したりします。学校では,分からない友だちに教えるように指導されます。持っているものをケチらないので,人間としての本物の能力が育ちます。

 家庭で,ママの手伝いをすることができるのにそっぽを向いている子どもには,能力は育っていないと言うことができます。家族の一員として,家庭生活の中で自分にできることが何かを見つけて,手伝おうとすることが能力の意味なのです。「自分のことは自分で」としつけていることでしょうが,それは本番前の準備運動のようなものです。

・・・他に向けて何事かを為そうとすることが力です。・・・


 〇力の育ち?

 赤ちゃんが育っていくにつれて,「ハイハイができるようになった」,「伝い歩きができるようになった」,「立って歩くことができるようになった」と,「できること」を親は喜びます。やがて言葉を覚えて喋りだすと,「こんなことを言えるようになった」と,親は成長を実感していきます。

 前章で,もう一人の子どもは言葉を母乳として成長すると言っておきましたが,話せるのはもう一人の子どもの育ちなのです。言葉を覚えてさまざまなことを知るようになります。つまり知力が身についてきたと考えられます。ここで育ちの見方について注意をしなければなりません。赤ちゃんの時は子どもの能力を見ていますが,おしゃべりについてはもう一人の子どもの知力を見ているということです。大切なことは,知っていることとできることは違うということです。

 もう少し説明をしておきましょう。ママがキュウリを薄く切っています。もう一人の子どもはキュウリを包丁で切ればいいことを知っています。ところがやってみるとそう簡単ではありません。パパが釘を打っています。金槌で叩けばいいと知っていても,いざやってみると釘は曲がってしまって打ち込めません。子どもがママのまねをしようとしてうまくできずに悔しがることがありますね。もう一人の子どもが子ども自身をコントロールできないからです。

 思いやりの話を知っていても,それを実行できなければ能力とは言えないのです。もう一人の子どもは知っていますが,それを実行できるのは子どもなのです。両方の成長が足並みを揃えなければ無意味です。知っていることは必要ですが,それだけでは十分ではないのです。そのギャップを埋めて自分のできる力にするためには体験するという大切な育ちをしなければなりません。

・・・育ちはできるようになった時が本物です。・・・


 〇程良い力?

 少子化のために家庭で子どもたちの相手は大人ばかりです。パパと遊ぶのが好きな子どもたちは,思いっきりぶつかっていきます。パパは強さを見せようとがんばっていますが,子どもはしつっこく食い下がるものですからさすがにくたびれてしまいます。ほほえましいのですが,親としての遊び方は少し工夫した方がいいでしょう。

 元気のいい子は思いっきり父親にぶつかっていきます。それでも父親はびくともしません。「パパはすごーい」と思います。そのことは大切な親子の触れ合いなのですが,そのままだと困ったことが起こりかねません。子どもが友達に父親に対するときと同じようにぶつかっていくと,相手の子どもはたまらず押し倒され怪我をすることになり,乱暴な子というイメージを持たれてしまいます。相手を見て力を加減することを教えておかなければなりません。

 おじいちゃんがいて相手をするとしたら,どうするでしょう? おじいちゃんは数度目には,「○○ちゃんは強いな。負けた負けた」と言って降参します。本当におじいちゃんはしんどいのかもしれませんが,実のところは子どもに力の加減を教えているのです。力を入れすぎると相手は転ぶことを体験させています。何気ない光景ですが,核家族になって失われた子育てです。

 無い物ねだりをしてもしようがありません。パパの出番は,子どもがムキになってきたら負けてみせることです。そのことで子どもに「パパは弱い」と思われることはありません。パパは相手が子どもだったら受けられないというところで,親のしつけとして負けなければならないのです。パパに勝ったという体験は子どもに強いという気持ちを与え,力を加減することを覚えさせます。

・・・力の加減をしないと,暴力にすり替わります。・・・


 〇学力?

 かなり前に「新しい学力観」という言葉が登場しました。「新しい」という意味は何でしょうか? 従来,学力は「知識を覚えるもの」というイメージが持たれていました。いわゆる入試対策の知育偏重です。自分による自分のための勉強が学力であるという考え方です。学力は学ぶ力と書きますが,何を学ぶのかという視点が欠落していました。

 一言に能力と言いますが,その具体的な内容があいまいです。能力の中身は例えば,知力,徳力,体力と分けると見えてきます。もう一人の自分が知力を,自分が体力を,そして一緒になって徳力を備えたときに,できるという行動可能性は「してあげられる」という能力にまとまります。こう考えてくると,新しい学力観とは,知る力+使える力=できる力を目指すものだということになります。

 ただ単に知ることは教えられれば済みます。万引きはいけないことと子どもでも知っています。こうした知力をどのように使えばいいのか,それは体験を通して使えるようにならなければなりません。学力とは使い道を学ぶことなのです。能力は教えられるものではなく,自分が学ばねば獲得できないものです。このできるという能力を,最近は「生きる力」と称しています。

 学校とは学ぶところと書きますが,いつの間にか授業を受けるところと錯覚しています。教室という言い方も,先生が主役であるという意識が見えてきます。このような無頓着な認識が学びを分からなくしてしてしまいました。使い方を学んでいないのです。学びを取り戻しませんか?

・・・知って使ってできたとき,学ぶ能力が備わります。・・・


 〇できたね?

 ここまでに「できる」という言葉がたびたび出てきました。能力を見極める際には目標となる到達点を設定しておかなければならないからです。育ちの場合に気をつけることは,到達点はたくさん用意すべきだということです。高い山に登るとき,一気に頂上を制覇することは不可能です。ベースキャンプを幾重にも設置しますね。

 歩行については,つかまって立てた,伝い歩きができた,手放しで立てた,一歩歩いた,5歩歩いた,ちょっと走れた,スーパーまで歩けた,・・・と順を追ってできるようになりましたね。言葉については,「アー」,「マー」,「ママ」,「ワンワン」,「ちょうだい」,「おもちゃ取って」,「今日もパパ遅いね」と,だんだんにお話しができるようになっていきます。

 子ども一人ひとりには,その子の育ちのペースがあります。一度や二度の体験でできるようにはなりませんし,ママの目に見える到達点も必ずしも世間並みという一般的なものとは違っていることがあります。また,「こんなこともできないの」というママによる評価は,ほとんどの場合,子どもにとっては理不尽です。「ママは言うだけだからいいよね」と思われていることでしょう。

 できるという目盛りがたくさん記されている物差しを,他の子の物差しや,大人の物差しで代用するような手抜きはしないでください。それをすると,我が子ができない子どもに見えてしまいます。誰の子どもでもありません。ママの子どもなのです。我が子の物差しを手作りできるのは,ママしかいません。昔は子どもの背が伸びた印を家の柱に刻みました。我が子専用の物差しがあったのです。同じように,我が子が何が何処まで「できるようになった」か,じっくりと見守ってやって下さい。

・・・できなかったことより,できたことを見届けてやって下さいね。・・・



《能力の意味とは,人として生きることができるということです。》

 ○かつては,できることをしないと骨惜しみをするとか,ずるいとか,卑怯だとか言われたものです。今では,なるべくしないで済ませる方がいい,するのはダサイとか,ぶりっ子とか,つまはじきの標的にされます。バカ正直さを笑う育ちがもたらした歪さが,無軌道な世代を産み出し,ひいては治安の悪化を招来しています。

 考えられない,意味が分からない犯罪の元は,能力の意味を弁えるための物差しがねじ曲がっているからです。昔,薩摩藩では勉強することを忌避する雰囲気があったそうです。勉強すると逃げ口上がうまくなって,人として卑しくなると思われていました。その直感は当たっていたのかもしれませんね。


 【質問5-07:あなたのお子さんは,能力の意味を弁えていますか?】

   ●答は?・・・どちらかと言えば,「イエス」ですよね!?

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