*** 子育ち12章 ***
 

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「第 5-08 章」


『買い物の 荷物分け持つ 母子連れ』


 ■はじめに

 大通りにつながる狭い道を渡ろうとしましたが,歩行者用の信号が赤です。
 狭い道を通過する車がどちらを見ても見当たらないとき,どうされますか?
 赤信号であっても安全だと見極めることができたら,待たずに渡りますか?

 登校途中のわが子がそんな場合に渡っていると知ったら,どうされますか?
 危ないから決して渡ってはいけないと注意するか,それとも見逃すかです。
 あるいは,子どもがおとなしく待っている前を平気で信号無視できますか?

 価値観の多様化の一例として,法を律儀に守るか,安全だけを優先するか?
 千円を拾ったら真面目に交番に届けるか,それともネコババをきめこむか?
 わが子が夜中に泣き出したとき,迷惑を気にするか,わが子を心配するか?

 運転中は歩行者が邪魔だと感じながら,散歩中は車が邪魔になる身勝手さ。
 世間の不合理には,損をした者は声高に,得している者は沈黙の意思表示。
 渡る世間は義理と人情の板挟みやら,捨てる神あれば拾う神への淡い期待。

 迷いの途切れぬ暮らしですが,譲れぬ一線という価値基準があるはずです。
 許されない領域に踏み込むことだけは何としても避けなければなりません。
 その上で心豊かに暮らすためのキーワードを見つけたいとは思いませんか?



【質問5-08:あなたは,お子さんに力を生かさせていますか?】

 《「力を生かす」という意味について,説明が必要ですね!》


 ●何が育つのでしょうか?

 前号では「何が育つのか?」というテーマについて考え,それは生きる能力であると答えておきました。人が生きるということは自分の周りの世界とうまく関わることです。相手は機械であったり,自然のものであったり,人であったり,生き物であったりしますが,それぞれに対してどうつき合っていけばいいかということです。

 直面する環境に臨機応変に相応しい行動ができる,つまり適応能力が育てば生きることができます。状況を的確に判断し,自分がやるべきことを見出し,その達成に向けて力を発揮する,そういうことができればいいのです。このような基本的な生きる力の育ちが必要ですが,それだけでは十分ではないという点について,この号で考えることにします。

 青少年の犯罪が起こると,テレビではご近所の方に伺ったインタビューがモザイク入りで放映されます。目立たないが挨拶もする素直ないい子で,どうしてあの子があんなことをしたのか信じられない,といったコメントが多いようです。旧聞になりましたが,有名大学出身でありながら,毒ガスを作った優秀な若者もいましたね。ごく普通の子や優秀な子がアブナイことをしでかすのは,大事な何かが育っていないからです。

 能力を生かすためには,どんなことを意識しておけばいいのでしょうか? 賢いことはいいことですが,ずるがしこいことはいけませんね。昔の映画のなかで,フィリップ・マーロウという探偵が「強くなければ生きてはゆけない,優しくなければ生きている資格がない」と語りました。確かにその通りなのですが,その意味を子どもたちにどのように伝えていったらいいのでしょうか?

・・・力を生かすことは,人が生きていく資格に関わることです。・・・


 〇最低限のルール?

 皆さんは法律の勉強をしたことがありますか? 社会生活上で「してはいけないこと」が決めてある刑法などを読んだことのある人は少ないでしょう。それなのにみんな平気で暮らしていますね。法律など無縁なものとしていて,大丈夫ですか? どうして法律を知らなくても暮らせるのでしょうか?

 法による禁止事項は行動の赤信号です。犯せば罰せられます。ところが,普通は行動の黄色信号で停止しています。「人に迷惑を掛けないように」という信号です。法のご厄介になる前にブレーキを踏んでいるから,法を知らなくても暮らしていけるのです。もし人の迷惑が見えなくなったり無視したりしていると,そのときは法に触れるようになります。触法少年ということで補導を受けます。

 人に迷惑をかけないように暮らそうとしても,少しの迷惑はかけてしまいます。そこで「済みません」と謝罪をしたり,「ありがとう」と感謝をします。お互い様という暮らしが営まれていきます。子どもにも,「アリガトウは?」と促して,しっかりとしつけます。アリガトウが言える素直ないい子が育っていきます。ここまではいいのですが,・・・。

 問題が二つ出てきます。一つは「迷惑を掛けなければ」という甘えです。知った人の誰にも迷惑をかけていないという逃げ道を見つけてしまいます。その逃げ道はやがて知らない人には平気で迷惑を掛けるわがまま道になります。「関係ないだろ」と人間関係を拒否する言動はその病状です。バス・電車のなかで騒ぐ子どもも,人の迷惑に対する感度が鈍っています。生きる力を包み込むマナーやエチケットという言葉が置き去りにされています。

・・・迷惑をかけないルールは必要ですが,十分ではありません。・・・


 〇義賊鼠小僧?

 もう一つの問題を解きほぐすために,例題を使って考えてみましょう。江戸時代に鼠小僧と呼ばれた盗人がいて,大店からお金を盗み,貧乏な長屋の住人にばらまいていました。江戸庶民はみんなよろこんで義賊とたたえていたそうです。このことから大事なポイントが見つかります。

 世の中は「ギブ・アンド・テイク」で動いていますね。そのことはよく知られていますが,大事なことはギブが先であって,「テイク・アンド・ギブ」と順序を逆にしてはいけないということです。鼠小僧はテイクした後にギブしています。普通の泥棒はテイク(取る)するだけですが,鼠小僧はギブ(与える)しているので,義賊と呼ばれたのです。でもやはりテイクを先にしているので泥棒に変わりはありません。テイクを先にするのは闇のルールです。

 かつて,豊かさが実感できないという言い方がされたことがあります。欲しいものはおよそ手に入って,これ以上欲しいものがないのに,豊かである実感がわかないということのようでした。ものの豊かさは受け取る豊かさです。テイクには際限がないから満足できなくて当然です。大人も子どもも受け取る豊かさに縛られている世情は不健全です。

 たくさんあるからちょっとぐらい頂いても構わないだろう,ちゃんと「アリガトウ」を言えばいいんだろう。どうせ盗まれた方も保険に入っているんだから,損はしてないはず・・・。人の懐勘定までしてくれるご親切です。何で大人たちはちょっとしたことを大げさにするのかな,と全く悪びれていません。そうなるのは道を踏み違えているからですが,どう踏み違えているのかをはっきりしておかなければなりません。闇のルールに気付いていないのです。

・・・テイク優先は決して豊かさではありません。・・・


 〇美しい言葉?

 アリガトウは最も美しい日本語だと言われています。だから,「アリガトウ」と言える子どもは誰もが素直ないい子だと思っています。しかし,この言葉は美しいが故に棘を潜めています。その棘は「受け取る(テイク)」ときの言葉だということです。

 子どもたちの非行,例えば,万引き,自転車盗,恐喝,おやじ狩り,窃盗などは,いずれも盗ること,取ること,つまりテイクする行動を相手に対して優先しています。闇のルールに従っています。その上,そのことに対して間違っているとか,悪いといった意識が希薄です。実は,そのように育てられてきたからです。その秘密は,鼠小僧が盗んで帰る際に言い捨てる「アリガトウ」という言葉にあります。金品を受け取る恐喝者も「アリガトウ」と言っています。

 子どもは生まれて以来ずっと,親や周りの大人からあれこれ世話を受けて育ちます。ご近所の方からお菓子を頂くこともあるでしょう。そんなとき親は「アリガトウは?」としつけをし,きちんとお礼が言える素直なよい子に育ちます。子どもは保護される立場であり,面倒をみるのが大人であるという思いこみが,知らないうちに大事なことを見落としてきました。

 子どもはあれこれ欲しいものが出てきても,ただおねだりするだけで待っていることしかできません。思い通りにならなくなってくると,やがてテイクできる獲物を親以外に探すようになります。テイクすることしか知らないので,店や他人から取ってしまいます。そうすれば素直にアリガトウと言えるからです。本当は子どもの方が「親の言うように育ってきたのにどうして?」と迷っているはずです。早く救い出してやりましょう。

・・・アリガトウは,使い方を間違えると闇への切符になります。・・・


 〇心の豊かさ?

 人間関係は二人の人から成ります。アリガトウは待っている言葉ですから,関係をつくり出すことはできません。出会っていきなりアリガトウはあり得ませんね。狭い道で他人同志が行き会ったとき,ドウゾと譲る人がいるから,アリガトウと感謝し,人の関係が成立します。ギブアンドテイクを思い出してください。「ギブするときドウゾ」と言い,「テイクするときアリガトウ」となります。

 英語で「プリーズ」とは,相手を喜ばせるという意味があります。ドウゾと相手に喜びを与えることが先です。これが表社会のルールなのです。自分ができることを相手にドウゾと提供すること,それが「力を生かす」ということです。繰り返しますが,テイクするために用いられる力は,闇の力であり,力の無駄遣いだけに留まらず,封じるべき力なのです。

 子どもには,アリガトウとドウゾをセットにして教え,ドウゾが先なんだとしつけなければなりません。ドウゾと言える子は非行と無縁になります。本当にいい子とは,ドウゾが使える子どもです。ドウゾという言葉は,優しく思いやりのある子どもにしつける魔法の言葉です。同時に,誰に向けても自分から働きかけることができますから,自発性や積極性にもつながっていきます。

 ものの豊かさがアリガトウの豊かさなら,心の豊かさはドウゾの豊かさです。イギリスには「牛乳を飲む人よりも,届ける人が健康になる」という俚諺があるそうです。人にドウゾと行動することが,ひいては自分の幸せへの道になります。福祉もボランティアも平和も善意も,あらゆる善いことは,喜びを与えるドウゾから始まります。どちらの豊かさがお望みですか?

・・・ドウゾが表社会のキーワードだと思い出しましょう。・・・


 〇ドウゾのしつけ?

 まだ力が未熟な子どもにドウゾを求めても,とても無理なのでは思われるかもしれません。子どもにドウゾをしつけることはそれほど難しくはありません。意図的にドウゾと言う立場に置いてやればいいのです。そのために,親や大人がアリガトウの立場にいて,子どものドウゾをひたすら待っていればいいのです。子どもが何気なく手伝ってくれたら,そのときを逃さず「アリガトウ」と笑顔で受け止めてやるのです。

 非行を犯した子どもは,親から「アリガトウ」と言ってもらったことがないと語ります。表社会のルールを教えられてこなかったという直感は的を射ています。大人がアリガトウと言えば,子どもは自然にドウゾと言えて,その喜びを体験できます。ママが喜んでくれたということほど,子どもをやる気にさせることはありません。表社会のルールはお互いを清々しい気持ちにさせることができるからです。

 このしつけで注意してほしいのは,親が「しなさい」と命じてさせたら,アリガトウとは言えないことです。アリガトウは待つ言葉であることを忘れないでください。「○○ちゃんがしてくれると,ママ助かるんだけどね」と下手に誘ってみて,待つ時間をきちんと入れて,やがてしてくれたらちゃんと「アリガトウ」を言いましょう。

 子どもが持っている力を「ママに向けて使って!」と,受け取り手になってあげることが大切です。誰かにきちんと向けることが基本的な「生きた力」の発揮法だからです。しつけと言えば子どもだけにちゃんとさせればいいと思われているかもしれませんが,力の使い方のしつけは親が当事者になって親子が一緒になって関わらなければなりません。

・・・親のアリガトウが,子どものドウゾを引き出します。・・・



《力を生かすとは,人をドウゾと喜ばせることです。》

 ○アリガトウという言葉が美しいのは,ドウゾの善意を温かく包み込めるからです。ボランティア活動で子どもたちがお世話をしたお年寄りからアリガトウと言われて,とても優しい気持ちになれたと喜んでいます。人の心が通い合う素晴らしい体験をしています。

 年長者が若者にアリガトウと言うことで,若者にドウゾの心を芽生えさせます。アリガトウは人を育て,生かす言葉なのです。年を取って人は弱くなります。子どもや孫の世話になり,アリガトウと言う立場になります。そのことがドウゾという心を後生に遺していきます。お年寄りのいる環境は大切なしつけをしてきたのです。核家族のママは大変ですね。


 【質問5-08:あなたは,お子さんに力を生かさせていますか?】

   ●答は?・・・どちらかと言えば,「イエス」ですよね!?

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