*** 子育ち12章 ***
 

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「第 5-12 章」


『少し無理 そんな仕事に やりがいが』


 ■はじめに

 親は子どもの前に立たされ親になったときうそのように心変わりをします。
 親はかつて自分も子どもとして生きていたことをどこかにしまい込みます。
 親は遠い日から今日までの長い育ちの道を昨日のことと思い込んでいます。

 パパは養育という字が養い育てることと知っているのに養い親になります。
 パパは育てるという言葉を養うという意味だと考え違いしているからです。
 パパにはパパにしかできない子育てがあると思えばママが助かるはずです。

 子どもは「こんなこともできないの?」と責め立てられて困っちゃいます。
 子どもは「余計なことをしないで!」と手を封じられて立ち往生してます。
 子どもは「気の済むようにやらせてくれないかな」と秘かに願っています。

 ママは二人の子どもだから大切に育てようと日々悪戦苦闘を続けています。
 ママは自分が産んだ子どもだから辛いことも笑顔を見れば消えていきます。
 ママは子どもに対して本気だからついやりすぎていつでも反省しています。

 家族はお互いが少しずつ気遣っているから温かな団欒の時を持ち合えます。
 家族は誰かのわがままを最も弱い子どもにしわ寄せする時があるものです。
 家族は助け合いを第一にしないとひび割れてしまう脆さが出てしまいます。



【質問5-12:あなたは,お子さんに学ばせていますか?】

 《「学ばせる」という意味について,説明が必要ですね!》


 ○どのように育つのでしょうか?

 前号では,「子どもはどのように育つのでしょうか?」についてお話ししました。育ちのサイクルは「失敗して反省し,学習して挑戦する」というプロセスになっていると結論し,失敗の大事さを見直してくださるようにお願いしておきました。今号では,その続きについてお話しします。

 もう一度整理をしておきましょう。自分が「失敗」します。そこでもう一人の自分が「反省」し,自分の実力を見極めます。その上で,もう一人の自分は,できている人と自分を比べて間違ったところを「学習」します。ここまでで終わると,自分の力にはまだなっていないことになります。自分がやってみて,成功しなければなりません。成功すれば,できる自分に育ったことになります。つまり,もう一人の自分が自分に,もう一度やってみようと「挑戦」させるステップが残されています。

 5番目の課題「子どもはなぜ育つのでしょうか?」について述べた際に,魅力あるモデルを見つけて「あんな人になりたい」と思えば,育ちの意欲になりますと書いておきました。実はその育ちへの願いは,単なる憧れに留まってしまうことが多いのです。目指す人をよく研究するというか,その人のことをよく知ろうとする意志が伴わなければなりません。

 坊やがサッカーの上手な隣のお兄ちゃんみたいになりたいと思っています。お兄ちゃんを見て,自分が下手だということを思い知ります。失敗しているわけです。そこでお兄ちゃんを見習おうと,意識して観察するようになります。すると,お兄ちゃんはいつもサッカーボールを足で小さく転がして遊んでいることに気付きます。自分は蹴ろうとばかりしていたと反省できますし,同時にどうすればいいのかも学習したことになります。ボクもしてみようと新しいボール扱いに挑戦したくなるでしょう。

 気楽なタレントに憧れる子どももいます。しかし,タレントが人に見えないところで努力と苦労をしていることを知ろうとしないかぎり,タレントには近づけません。山は眺めているだけでは頂上に到達できないのです。小さな一歩を絶え間なく積み重ねるしかありません。

・・・育ちのサイクルは陰で地道に回転を続けているのです。・・・


 〇反省?

 失敗をしでかしたら,次は「どうして?」と「反省」をするはずです。もしここでママが失敗を性急に叱ったら,子どもはその叱責そのものに不快となり,反省をしなくなります。もう一人の子どもの出番を奪います。育てるのに叱ってはいけないという意味はここにあります。ママが失敗を気にしなくていいと励ますことで,もう一人の子どもは心おきなく反省することができます。

 反省とは,もう一人の自分が自分を振り返ることです。自分の力を見極めて,本当の自分を知ります。まだまだ未熟だなと自覚できます。実力を見定める反省ができたら,次のステップに進みます。反省だけなら猿でもできるということですが,人は猿にはない資質を持っているのです。それは「学習」できるということです。

 ママが失敗した子どもに向かって「反省しなさい」と言います。子どもは「何をどうすれば反省したことになるのか?」と迷っています。とりあえず「ごめんなさい」と謝るかもしれません。そこで終わってはいませんか? 誤りを謝るとは,字面として紛らわしいことですが,これでは反省になりません。なぜなら,ママに謝るのは,ママに迷惑を掛けたという意味合いになるからです。反省とはママに対してすることではなくて,自分自身に向けてすることなのです。

 カツオ君が波平お父さんの大切にしていた盆栽の松を折ってしまいました。玄関に正座して帰ってきたお父さんに向かって「ごめんなさい」と謝ります。過ちの結果生じた被害に対して詫びることは必要です。「やってしまったことは仕方がない。どうしてそんなことになったのか?」と尋ねます。カツオ君はそのときの状況を思い出して説明します。遊びに夢中になって周りを確かめなかったことが原因だと気がつきます。それが反省です。

・・・自分の失敗がもう一人の自分を目覚めさせ,反省を引き出します。・・・


 〇学習?

 自分の失敗の原因を知りたいと思っても,うまくできていないのですから分からないという場合もあります。どこで間違えたのかは,正解と比べないかぎり分かりません。何かの行動であれば上手にこなしている他の人を見習うことで,自分の間違いが見えてきます。この反省の上で人がしていることをまねること,それが学びです。マネル=マネブ=マナブと,言葉は変化してきたのです。かつての徒弟制度では親方の技を見て盗むことが修業と言われてきましたが,これも真似ることです。

 学ぶとはできる人をもう一人の自分が見て「こうすればいいのかな」と真似をすることです。言葉で説明しても子どもには分かりません。親がしていることを見て真似をすることならできます。子どもの学びは真似ることですから,親に似てきます。親がするようにするということです。子どもにはそうするより他にやり方は無いのです。親がよいお手本を見せることは,子どもの学習への励ましになります。

 字の練習をするとき,自分なりにいくら練習しても効果はありませんね。よい手本をなぞることが必要です。美しい字と自分の字を比べて,違っている部分を見つけ(反省),修正の仕方を真似る(学習)手続きが手習いということです。手本が無かったらお手上げですし,手本がよくなかったら上達は望めません。

 昔から「下手の考え休むに似たり」と言われていますね。いったい下手とはどういう意味なのでしょうか? 考える材料を持ち合わせていないことです。考える材料とは,いろんなよいお手本を知っていることです。何も知らなければ考えようがありません。似たような学習体験をしていれば,こんな時はこうすればいいだろうと推量が可能です。考えるとは比較検討することから始まるのです。

・・・もう一人の子どもがお手本を見つけたら「学習」できます。・・・


 〇考える人?

 ものを考える目標は,最も簡単に言えば,「こうすればこうなる」という因果関係を見つけることです。ゲームがおもしろいのは,「こうしたらこうなるのでは?」とやってみたら,「思った通りになった」時の予想的中の成功です。自分の考えが証明された喜びを,人は感じることが出来ます。これが学びから生まれる快感です。

 ものを考える目的は,学びから得た因果の知識によって将来の予測が出来るようになることです。「こうしたらこうなる」と分かっているから,ヒトは計画的に暮らせるようになりました。社会の豊かさは今日の結果として明日が来るという考える力によって実現したと言えます。この力は「もう一人の自分」が発揮する力です。

 「この子は何も考えていないんだから!」とママがお嘆きです。「何も考えていない」とは,極楽とんぼの様であって,今現在のことしか頭になく,先の成り行きを予想しようとしないことです。ただちょっとだけ子どものために言い訳をしておくと,ママの思っている先のこととは「大人になったときのこと」という遠い将来であることが多いようです。それは子どもには無理無体な望みです。子ども時代はまだ考える下地を作っている準備段階です。

 子どもはあれこれに興味を持ち,何でもやってみようとします。食べたら苦かった,走ったら転けた,切ったら痛かった,落としたら壊れた,塀に登ったら恐かった,種を植えておいたら花が咲いた,傘を差したら濡れなかった,予習したらよく分かった,本を読んだらおもしろかった,・・・,いろんな「○○したら●●だった」という自分でする体験を集めています。もう一人の自分はそれを材料にしてものごとの関係を整理できるようになります。

・・・因果関係を見つけようとする人が考える人です。・・・


 〇考え方?

 ところで,人は森羅万象を読み解けるほどの知力は持ち合わせていません。考えて分かることはごく一部です。「こうだとするとこうなりそうだ」という程度までしか分かりません。そこで,確率という経験則をとりあえずの道具として考案しました。例えば,天気予報です。さらに,「こうだから,こうなるかもしれない」というように,ほとんど分からないこともたくさんあります。例えば,Jリーグや日本シリーズの予想です。

 結果を確かな程度に予測できないと,不安になります。ヒトにとっては危険な結果もあるでしょう。例えば,いつ車に撥ねられるか分からないから,不安であり,危険だと感じています。時として選択を迫られる場合に結果が読みとれないと,人は誰しも迷い,悩みます。何も考えなければ不安も悩みもあり得ません。

 人が何事かをしようとするときの考え方には,二筋の道があります。一つは結果として身に危険が及ぶ可能性が少しでもあると予測できるなら,安全のために回避するか中止する道です。人は生来臆病ですから,こちらの道を選ぶことが多くなります。子どもの場合で言えば,例えば,廊下を走ったら自分や他人に危険だから,止めるといったことです。

 もう一つはよい結果が出るかもしれないと期待できるなら,多少のリスクは覚悟してやってみようとする道です。夢の可能性に向かって走るときの熱い思いが不安を吹き飛ばします。「前向きに考える」という言い方は特殊な世界の言い回しかもしれませんが,素直に意味をとれば,本来はよい結果に向けて行動しようとする覚悟です。子どもの心配や不安を親が引き受けてやれば,何よりの励ましになることでしょう。

 古いお話ですが,アフリカの人に靴を売り込もうとするとき,「誰も靴を履いていないから売れない」と考えるか,「誰も履いていないから売れる」と考えるか,二つの考え方があります。「可能性を見つけることが考える力である」とするなら,後者が採択されるべきでしょう。可能性を伸ばすことが成長ですから,子どもの世界でもやはり前向きに考えましょう。

・・・考える力は可能性を見つけるために使うものです。・・・


 〇挑戦?

 この挑戦ですが,「スモールステップ(小さな一歩)」であることが大事です。「やれそう」と見切りができることです。できそうもないことに挑むのは無茶・無謀・無駄・無理なことです。「それだったら自分にもできるかもしれない」と思うためには,少しの勇気が要ります。その勇気を生み出すためには,「ここを変えてみよう」という何らかの具体的な改善策を学習から見つけておくことです。もちろん,それがアドバイスであっても構いません。

 跳び箱は跳べないと思っていたら跳べませんし,無理に跳ぼうとしても手が最後の瞬間にブレーキを掛けるので危険です。人ができるなら自分もできるはずと開き直ることも一つの思い切りです。そこで「みんなも跳んでいるんだから,あなたも跳べるはず。思い切って跳んでごらん」と指導されます。しかし,どうすればうまくいくのか何の思案のないままでは,やはり「跳べるかも」とは思えません。跳び箱の先端部分に印を付けて,「ここに手をつくようにしてごらん」と指導すれば,今までと違ったやり方とはっきり分かるので,挑戦してみようかなという気になれます。

 挑戦はもう一人の自分ができると思ったとき,始まります。幼児がママと一緒に歩いているときです。ちょっと立ち止まって,それに気づかないママとの距離が離れてしまうことがあります。幼児がすぐに振り向いて歩いていくママを見たら,「ママー」と追いかけてきます。ところが,ママとの距離がかなり離れてしまうと,走ろうとはせずに座り込んでしまって,「ママ」と泣き声で叫ぶだけになります。走って追いつけるかどうかを見切っています。少しなら走りますが,少々のことでは追いつけないと思うと走ろうという気は起こりません。挑戦は「少しならやれそう」という形があるのです。

 小さな挑戦なら,かなりの程度達成することができます。子どもは達成感を喜びながら,次の小さな挑戦を続けていきます。その繰り返しが,「少しならできる」という自信につながります。物事に取り組む際に「できそうなことをすればいいんだ」というとても重要な姿勢を身につけます。

・・・失敗した自分が,もう一人の自分の学習の助けで挑戦できます。・・・



《学ばせるとは,育ちのエンジンへの点火という励ましです。》

 ○学習といえば学校でのお勉強という連想が強いかもしれませんね。でも勉強は学習のほんの一部でしかありません。子どもの育ちのすべてに学習プロセスは組み込まれているからです。

 ママも子育ての場でちょっぴり失敗をして,切ない反省をし,悩みながら学習をして,恐る恐る挑戦をしていますね。子育ちと親育ちは仲良く二人三脚で進んでいきます。足並みは揃っていますか?


 【質問5-12:あなたは,お子さんに学ばせていますか?】

   ●答は?・・・どちらかと言えば,「イエス」ですよね!?

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