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「第 52-11 章」 |
『子育ちは 護りの手から 抜け出して』
■子育ち12疑問■
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『子育ち第11疑問』
【親が保護するが,子どもは過保護されるとは?】
《まえがき》
この子育て羅針盤では,子どもの育ちを6つの視点と2つの領域から理解することを目指しています。6つの視点とは,誰が育つのか,どこで育つのか,いつ育つのか,何が育つのか,なぜ育つのか,どのように育つのかという問に沿うものです。また,2つの領域とは,自分自身の育ち(私の育ち)と他者と関わる自分の育ち(私たちの育ち)という育ちの領域を想定しています。6つの視点にそれぞれ2つの領域を重ねると,12の論点が生じます。これが版の構成となります。
第1の誰が育つのかという問には,鏡に映っている自分を見ているもう一人の自分が育つと考えます。しっかりしろと自分を励ましているもう一人の自分が育たなければならないのです。これまでの子育て羅針盤の形式に添って,奇数章では,もう一人の自分の育ちを考えていきます。偶数章では,人は社会生活が必至なので,自分は他者と対等な関係を持つことができるように育つと考えていきます。他の5つの視点についても,同様とします。
この版では,大人と子どものすれ違いを題材にして,「子育て」と「子育ち」という対照について考えてみようと思っています。
《保護》
コンビニエンス,手軽で簡単で便利な暮らしが出来上がっています。一方で,パーソナル化という個人を大切にする流れは,子ども一人一人を大切に保護しているようにおもわれます。子ども向けの商品も充実しており,至れり尽くせりです。子どもにとって関心が大きい遊びにしても,手の込んだゲームがあふれて,のめり込んでしまうほどです。こんな時はこうすればいいという反応を促すリアクション文化が,子どもの暮らしを楽なものにしています。
子ども向けの世界が出来上がっているので,そこに住んでいれば,大人世界に入っていくということは思いもよりません。今のままでいいという,成長拒否に陥ります。世代間の交流も途絶えて,話が通じなくなるという実感も語られています。子どもをあまりに子ども扱いする保護が,子どもの育ちを足止めすることになっています。一人一人の親が我が子を保護するということではなく,すべての親がすべての子どもに対して,それとは意識することなく,結果として保護が過ぎているということです。
《過保護》
現状のままで不都合はないという状況では,成長志向は目覚めません。安易さに流れないように自分で手掛けてみようとすると,自分にできないことがあると分かり,何とかしようとします。未熟であるという納得が,どうすればよいかという学習を招き,できるかもしれないという試行を促すはずです。そのような子ども自身の育ちの過程を踏むことがなければ,子どもの能力として身につくことはありません。車で山頂に行っても,そのことによって山に登る力がついたとは言えないのです。
昔の言葉を出してしまいますが,「苦労は買ってでもしろ」と言われてきました。すんなりとできることばかりやっていると向上はないということで,自分の壁を突き抜ける経験が必要であるということです。世間には,苦労知らずのお坊ちゃんという言葉もありました。保護が過ぎて苦労を経験していないと,ちゃんとした大人に育つことができないという庶民の経験知です。勉強での苦労だけをさせるのではなく,暮らしの全般で,それなりの苦労,思い通りにならない状況を許して見守る適度の保護が望まれます。
興味関心の対象は個人によって異なりますが,性別による違いもあります。母親の関心事と父親のそれとは違います。子どもは影響されますが,同時に異性が持つ関心についての知見を経験します。女の子であれば,父親を通して男性の,男の子であれば,母親を通して女性の,感じ方考え方を学び取ります。もちろん,性別に拘らず,複数の考え方があるという視野の広がりも経験するので,他者との異論に対する関わり方も学ぶことができます。複眼思考を父母が身をもって提示する,それも父親としての役目なのですが?
★落書き★
不良になることをグレると言います。貝合わせという,トランプの神経衰弱に似た遊びがあります。ハマグリの貝殻をバラバラにして相手を見つけます。貝は本来の相手としか合いません。この遊びで相手と合わなかったハマグリをグリハマといいます。グリハマがやがてグレハマに音転化し,やがてグレるとなりました。これを語源に,ちゃんとしてないこと,さらに,皆からはぐれて不良になることもグレるとなりました。
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