*** 子育ち12章 ***
 

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「第 53-07 章」


『子育ちは 能力使う 楽しさを』


■子育ち12幸福■

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『子育ち第7幸福』

【楽しめることが能力の証である】

《まえがき》
 この子育て羅針盤では,子どもの育ちを6つの視点と2つの領域から理解することを目指しています。6つの視点とは,誰が育つのか,どこで育つのか,いつ育つのか,何が育つのか,なぜ育つのか,どのように育つのかという問に沿うものです。また,2つの領域とは,自分自身の育ち(私の育ち)と他者と関わる自分の育ち(私たちの育ち)という育ちの領域を想定しています。6つの視点にそれぞれ2つの領域を重ねると,12の論点が生じます。これが羅針盤の方位構成となります。
 この版では,子どもたちが幸せに向かって育っていくことを願って,タイトルとして「アランの幸福論」に語られている言葉を選択し,子育て羅針盤の視点で考えてみることにします。

《幸福であるために》
 好きこそものの上手なれ。楽しめること,それが結果の楽しさであれば,成し遂げようとして能力を出し惜しみしないでしょう。無理なく最大限の努力がなされます。その際に,必然的に現れてくる能力の限界は,視点を変えると,能力の更なる成長点としての機能を発揮すべきところです。いわゆる限界に挑むということこそが,成長のプロセスになるのです。好きなことに打ち込んでいるときの姿や表情は輝いています。心身ともにパワーが漲ってフル回転しているから,生きているという幸せに包まれます。
 人に言われてすることは,楽しくありません。どちらかというと,したくないことであり,しなければならないから仕方なく嫌々しているということになります。子どもの場合では,しなさいと言われて手伝っているとき,すればいいという思いで,中途半端な能力の出し方しかしません。する気のない能力は無駄遣いであり,さらには,いい加減な行動として危ういことさえあります。しなければならないという強制が生きる上で必要なことに課せられるとき,生きていくことに投げやりになり,不幸せに感じられることでしょう。

《幸福になるために》
 楽しみは,はじめから付いてくることはほとんどありません。やってみなければ,楽しいかどうかは分からないのが普通です。人は動物であり,能力を使って動いていてこそ存在の意味が出てくるものです。能力を使うきっかけとして,生きていく上でこなさなければならないことを,神が与えた試練として素直に受け止めて,自分の能力で対処するようにします。とりあえず,楽しいか否かという自らの意味づけは封じ込めて,受け入れてみることにします。そういう形で,能力の発揮に専念してみることです。
 苦あれば楽あり。はじめは苦労させられるが,やがてことが成し遂げられてくるにつれて,やってよかったということになり,やっていて楽しいという風に,受け止め方が変化していきます。それは,やっているうちに能力が高まって,よりよい結果に向けた意欲を感じてくるからです。はじめはどうなることかと見通しを持てなかったけれど,何とか目途が立つようになったということで,自らの成長を実感できるはずです。能力の発揮を通じて自らの存在感を確認することができれば,幸せになる準備が整うことになります。



 子ども社会も結構いろいろあり,学校という特殊な子ども社会に居心地の悪さを感じている子どももいます。そんなとき,義務教育だから行かなければと子どもに強いることがあるなら,それは親の不勉強です。義務という言葉は親に向けられた言葉であって,学校に行かせる義務が親にあるのです。子どもが学校に行きたくない理由があるなら,それを排除してやる義務があるということです。いじめにあったとき,行きたくなければいかなくてもいいという教育を受ける権利を放棄させることは,親の義務放棄の結果であるのです。

★落書き★

 アメリカのアニメでポパイというヒーローがいました。ポパイが力を発揮しようとするときには,いつもホウレンソウの缶詰を開けて食べています。この結びつきには仕掛け人がいました。当時のアメリカの子どもたちはホウレンソウの嫌い子どもが多かったそうです。ホウレンソウはビタミンや鉄分などの栄養素を豊富に含んでおり,育ち盛りの子どもにはぴったりの食べ物です。これを何とか子どもたちに食べさせようというPTAのような団体が企んだ戦術だったのです。


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