*** 子育ち12章 ***
 

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「第 59-10 章」


『子育ちは 親から子に向け 愛送り』


■子育ち12省察■

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『子育ち第10省察』

【愛】

《まえがき》
 この子育て羅針盤では,子どもの育ちを6つの視点と2つの領域から理解することを目指しています。6つの視点とは,誰が育つのか,どこで育つのか,いつ育つのか,何が育つのか,なぜ育つのか,どのように育つのかという問に沿うものです。また,2つの領域とは,自分自身の育ち(私の育ち)と他者と関わる自分の育ち(私たちの育ち)という育ちの領域を想定しています。6つの視点にそれぞれ2つの領域を重ねると,12の論点が生じます。これが羅針盤の針路構成となります。

《愛とは?》
 母性愛という言葉があります。母として持つべき愛ということではないでしょう。母として持つことに喜びがある愛でしょう。誰かに押しつけられたり,自分で背負い込むものでもないでしょう。母にしか分からないものなので,推察はこれくらいにしておきます。愛されたことがなければ,愛することができないともいわれます。そうであるなら,子どもは愛されるべきです。愛の連鎖が親子にあれば,しあわせな家族が再生されていきます。子どもが育つというのは,愛を育むことでもあるのです。

 自己愛というものもあります。子どもの成長は,もう一人の自分が自分を愛するということを出発点とします。自分を愛せないとなると,生きていることに喜びがなくなります。ところで,自己愛はいつまでも持ち続けるものではありません。自己愛は,自分が大事にされるべきという甘え,世話されて当然という思い上がりなど,育ちに向かう意欲をそぎ落とすことになります。もしも母親に自己愛が残っていると,子どものためといいながら,実は自分のために子育てをすることになるので,早く目覚めてください。

 隣人愛というものもあります。子どもにとっては隣人は友人ということになりますが,その関係がかなりか細くなっているようです。冷えているというのではなく,無機質的なのです。喜びを分かち合うという愛への手掛かりがつかめなくなっています。それぞれがそれぞれであるという一線を引いた関係では,隣人という感覚を育むことができません。愛とは人と人の間にあるものです。隣人の中にあるはずの世代をつなぐ人の愛が育ちの階段であり,人が生きていく未来を喜びで迎えさせてくれます。



 「今時の若い者は」という言葉は古代の文字遺跡にもあったそうです。若い者は,旧世代の者に対しては,常に反発してしまうようです。世の流れは今日が明日にはぶれていくことで,真っ直ぐに進んできました。自転車のハンドルは常に左右にぶれているから,真っ直ぐに進むことができるのです。人の行動や育ちも同じです。今までと違うから,安定した明日が迎えられます。今日に拘っていると,明日は転けてしまいます。反れる力,それが育ちの階段なのです。

★落書き★

 家の中で,調理をする場所を台所といいます。レンジ台や流し台があるからと思っていませんか? 台所とは,平安時代に誕生した言葉です。天皇が住んでいた清涼殿のそばに,女房(宮中勤めの女官)の詰め所があり,そこには食器をのせる台盤が置いてありました。そこで詰め所は台盤所と呼ばれ,やがて台所と省略され,さらに献立を整える場所という意味が付加され,一般に使われるようになりました。流し台があるところと思っていても,全くの的外れでもないようですね。


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