*** 子育ち12章 ***
 

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「第 6-01 章」


『楽しみは 別れを惜しむ 友がいて』


 ■はじめに

 アリストテレスが「人間は自然においてポリス的な動物である」という定式化を行い,その後一般には「人間は社会的,政治的な動物である」と拡大解釈されてきました。要は,みんな仲良く暮らしたいのだということでしょう。

 ところで,集団的な暮らしをするときに,その形式はアソシエーションとコミュニティの二つに分けることができます。アソシエーションはPTAの「A]でもあるのですが,共通利害による関係で結ばれます。会社組織などもこの範疇です。特徴は離合集散が常だということです。いわゆる,金の切れ目が縁の切れ目です。一方,コミュニティは社会的な共同生活の関係であり,定着・安定しているものです。

 子どもたちの生活場面で考えると,園や学校はアソシエーション,地域がコミュニティになります。何らかの目的を持って集まるか,つながり自体に意味を見つけようとするかという違いがあります。そこには,同じ友だちといっても,通り過ぎていく友と生涯を通じた友ができていきます。

 もちろん,流動的な社会になっていますので,長いつきあいのできる友は得難くなっています。自分の生き方に影響した友だちが数人いるといったことかもしれませんが,その体験が新しく友だちの輪をつないでいくときに生かされているはずです。



【質問6-01:あなたのお子さんは,仲のいい友だちをもっていますか?】

 《「仲のいい」という内容について,説明が必要ですね!》


 〇何処でつき合うのでしょうか?

 人はたくさんの出会いと別れを経験します。そこでは良きにつけ悪しきにつけいくつかのドラマが展開され,幾分かは記憶の底に沈殿していき,人となりの素地を作っていきます。子どもの育ちでは,どのような人たちと関わり合い影響を受けてきたかということが,方向を左右することがあります。

 不幸にして心の傷になるようなトラウマがあると,真っ直ぐそうに見える心根に亀裂を潜ませてしまいます。時の流れに癒されることがあるにしても,決して万能ではありません。だからといって,他人との関わりを逃げていては,育ちができないというジレンマがあります。

 人と人が心地よく結ばれるためには,何かが同じであるという条件があります。同窓である,同郷である,同じ趣味を持つ,同じ釜の飯を食うとか,同じであることを確認したら,接近しやすくなります。子どもがものをねだるときの決まり文句は「みんな持ってる!」ですよね。

 みんなと同じであれば安心です。ところが,そこに落とし穴が待ちかまえています。小さな違いを重大な違いと過大に意識してしまいます。同じテレビ番組を見ていないと,友達と話ができなくて仲間はずれにされるという恐怖に脅かされるようになります。みんなが好きだというタレント,流行歌を好きにならなければならないという束縛が形成されていきます。

 みんなと同じであることに疲れていきます。誰も強制はしていないはずなのに,自分がそう思いこんでいる節があります。こうして人付き合いが嫌になっていくこともあります。

・・・何か一つが同じでありさえすれば十分と思わなければ窮屈です。・・・


 〇隔離?

 クラスメートとのつきあいを見ていますと,みんな仲良くしています。友だちの人数を尋ねると80年代には4,5人でしたが,今では10人以上と答えます。人付き合いが上手でないという傾向を重ねて考えると,広く浅いつきあいに止めているようです。クラス替えがあると友だちががらっと変わってしまうのはその証でしょう。あんなにいつも一緒に遊んでいたのにと思っていても,クラスが変わるとつきあいがパタッと途絶えます。

 仲良くしなさいというママの教えが浸透しているのですが,行き過ぎているかもしれませんね。仲良くすることはいいことですが,誰とでもというのは無理でしょう。そこで子どもたちは誰とでもというつきあいを強いられて,浅いつきあいしかできなくなります。

 子どもをそこに追いつめた要因は何でしょうか? 少子化の中で子どもたちは近所に遊び友だちを持てなくなっています。友だちといえば園や学校のクラスメートだけです。たった一つの子ども集団に属しているので,そこで上手につきあっていないと不安です。ほかに行き場がないのですから。

 私の人生とか生活を意識するようになって個別化が進んでいます。パパは仕事,ママはパートやアルバイト,子どもは勉強と,つながりの接点がありません。核家族は弧家族に突き進んでいきそうです。家庭の崩壊と言われている傾向は一向に止まりません。どうすればいいのでしょうか?

 欧州では,個人生活だけではなく,家族としての生活,地域住民としての交流・奉仕,政治の勉強をすることが義務だと考えられているそうです。この義務を免れているのは,外国では「刑務所の囚人と,軍隊の軍人だけ!」となります。社会人とは単に勤め人ではないということを気づかせてくれます。

 地域に向かえば,家族というつながりを否応なく意識させられるはずです。お隣の家族とのおつきあいになるからです。子どもに新しい生活の場を与えることができます。同年齢を越えた子どもたちの新しいつながりが生まれます。

・・・同じ地域に住む人に背を向けていては,社会性は育ちません。・・・


 〇幼なじみ?

 幼稚園や保育園に通う子どもたちは,公立・私立といった選択の自由と定員制のために,四方に散っていきます。幼稚園に通う子どもは近所の子どもが保育園に通っていれば,出会いの時間がありません。通っている園ごとに地域の子どもたちがグループ化されていきます。同じ園に通っているという条件が,地域の中まで持ち込まれるからです。

 そういう囲い込みをするのは多分にママの勝手な気まぐれでしょう。同じ園の仲間という絆しか持てないのは,同じ園だから話がしやすいといったことから始まります。同じ地域の子どもと考えられないのは,ママが同じ地域の住人という気持ちを持っていないせいです。

 子どもは子どもが好きです。遊ぼうとします。近所の子どもであればいつも顔を合わせるのですから,つきあうのが当たり前と思っています。生活時間の違いがあっても,遊べるときに遊べばいいはずです。園の違いがあれば,そこでの違った経験をお互いにおもしろがっていればいいのです。「そんなことをするんだ。おまえのところはおもしろいな。教えろよ」。

 お互いの違いを認め合って,まねしあって,「あいつとつきあってるとおもしろいことがある」,それがお互いを結びつけていきます。同じ地域に育っていれば長いつきあいになります。いろんなことが学びあえます。親の違い,家庭の違い,園の違い,学校の違い,ちょっとした違いを友だちの中にたくさん見つけるから,お互いのことがよく見えてくるようになります。短所があっても,同時に長所も認めあえます。

 幼なじみとは,同じ地域で共に育った仲間です。気心の知れた友だちがいるから,地域が実感できるようになります。仲良しとは長い時間の末に育まれるものです。クラスのような1,2年のつきあいでは,分かり合うまでには至らないのが普通でしょう。出会いの場であることはもちろんのことですが。

・・・深いつきあいは身近な長いつきあいから生まれます。・・・


 〇友であること?

 情けは人のためならず。この故事は,情けを掛けるとその人が甘えて結局は自立の妨げになるからしてはいけないという意味に逆転しているそうです。実のところは巡り巡って自分に果報が回ってくるという,人のつながりへの信頼感でした。あまりに自立を意識させられるうちに,若者は自立しないと生きられない,自立していない人は生きる資格がないと追いつめられています。

 つきあっている相手の行動を見ながら,「私なら,あんな風にはしないのに」と思うことがあります。そのとき無意識に相手を批判していることになっています。生まれも育ちも違うし,周囲の環境条件も異なっている他人は,その人のやり方でしか行動できません。自分と違ったことをすれば,「おかしい」とみんなで笑いものにする風潮があります。みんなが従っているマニュアル化された生き方には,本物は奇異に見えてしまいます。

 「ある友人を本当に理解するとは,その人の将来を理解することである」と,アメリカの心理学者オルポートが語っています。自分のめがねに適わないからと,友人を自分が善と考える方向に向けようとすることが友情ではありません。友人はそうせざるを得ない中でよりよい選択をしていると察して,その友人の進む方向を理解してあげることが友情です。

 自分があれほど忠告してやったのに聞かないからと思うことがあったら,友を理解するのではなく,自分の思いやりが裏切られたことをなじっているにすぎません。もし本当の友であれば,友の行動がそれしかないことを痛いほど納得できるはずです。友とは判定者ではなくて,理解者なのです。

 いじめなど困ったことが降りかかったとき,相談できる友だちとは,何とかしてくれる強者ではなくて,弱者である自分のつらい思いを共感してくれる理解者です。愚痴や悩みを黙って聞いてくれる人,そんなつきあいが仲のいい友だちづきあいです。一人で何もかもこなせるほどの自立は誰にも到達できません。弱みをそっと覆ってくれる人,それが友人です。そんな友人は親にできない安心感を与えてくれます。

・・・仲がいいとは素直に弱みを分かり合える仲のことです。・・・


 〇友だち探し?

 大学に入ってすること,それは学を究めることではなくて,友だちを探すことになっています。ということは,18歳までは友だちがいないままに育ってきたということなのでしょうか? 園から学校を通じて長い期間,たくさんのクラスメートがいたはずなのに,友だちとは思っていなかったことになってしまいます。

 どうしてこんな子どもたちが育ってきたのでしょうか? 小さい頃は友だちはいたはずです。でも高校,大学と進学するにつれて,生き別れになっていきます。いわゆる歩んでいく道が別れ別れになります。そこでつきあいは途切れていきます。特に受験期は周りのクラスメートは仲間というより,競争相手です。心情的な敵対関係になります。友だち関係がご破算にされたという空白の時期を経験しているので,その反動なのでしょう。

 パパやママにも仕事場で仲間がたくさんいるでしょう。一緒に飲みに行って楽しい時間を過ごせるはずです。ところが,会社を辞めると縁は切れます。同じであった同僚という絆が断たれるからです。子どものクラスメートという仲間も同じです。同窓会が開かれるのは小中学校までがほとんどです。それは地域という絆が通奏低音として途切れずに流れているからです。

 ところで大学で見つける友だちとは? それは就職後にも何かと利便性が期待できるつきあいになります。それはさておき,単純に青春時代を共に過ごす仲間が欲しいということでしょう。フランクなつきあいができる友人というつながりは魅力的です。

 ママは子どもの友だちをフランクに見ていますか? お隣の子に負けないように我が子の尻を叩いたりしていませんね。友だちの悪口を言ったりしたときに,子どもから反発されて戸惑ったことがあるでしょう。友だち関係には利害や損得はなじみません。その時々で楽しいつきあいができれば何よりです。友だちは出会いと別れによって移り変わっていくものです。ママにもこれまでいろんな友だちが通り過ぎていったはずです。

・・・今素直な気持ちでつきあえる人が,仲のいい友だちです。・・・


 〇助け合う?

 幼い頃に両親が離婚し,父と祖母との生活をしていた中学2年生の男の子がいました。父親は多忙で,その少年が洗濯,掃除,炊事を主婦代わりにして,友だちと遊ぶ暇もありません。やがて「僕は疲れてしまいました」と遺書を残して,寂しく死んでいきました。

 家庭が崩壊し,学校にも行けず,地域の目も届かない孤独の中で,社会から捨て去られた子どもがいます。そんなに辛かったならなぜ近くの人に言ってくれなかったのかと思いますが,人は助けて欲しいとはなかなか言い出せないものです。ぎりぎりまで我慢をします。そしてある日突然に限界を超えてしまいます。仲のいい友だちがいたら救われたはずです。追いつめられた気持ちを和らげ,手を差し伸べるパイプになれるからです。

 特殊な事例ですが,子どもたちの友だちネットワークも大切です。こともなく過ぎていくので何もないように見えますが,ネットワークが壊れたときの結末がその重要さを垣間見せてくれます。子どもには子どもなりの世間があります。任せておいて,手に余ることが見えてきたらいつでも引き受けるという親たちからのメッセ−ジを送ってやってください。

 歓声を上げながら他愛のない遊びに興じている子どもたちは,泣いたり笑ったり,仲良くしたり喧嘩したり,仲間集団で起こりうるあらゆる喜怒哀楽をシミュレーションしています。集団であることの意味は助け合うことだということを身をもって体験しています。「友だちじゃないか!」という言葉で,助け合う力を発揮できる喜びが育っているのです。親ネットワークは余計な口出しを控えて見守りましょう。

・・・助け合ってこそ友だちになれます。・・・



《仲のいいとは,いて欲しいと願うことです。》

 ○子どもたちが宿泊研修するときに,「夜は大声で騒ぐ,靴がきちんとそろえられずに散乱する,家庭のしつけがなっていない」という声が挙がります。これはちょっとばかり無理難題でしょう。家庭と違っているから現れた不行き届きだからです。

 家庭では大したこととは思えない不行儀も,集団になれば大きく目立つようになります。それを体験させ学ばせるために集団研修が行われるはずです。家庭では集団教育はできません。社会が子どもを育てるという意味はそこにあるのです。


 【質問6-01:あなたのお子さんは,仲のいい友だちをもっていますか?】

   ●答は?・・・もちろん,「イエス」ですよね!?

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