*** 子育ち12章 ***
 

Welcome to Bear's Home-Page
「第 6-05 章」


『晴れ姿 子の祝いより ママの見栄』


 ■はじめに

 所構わず携帯電話を使い,電車内で化粧をし,地べたに座っている。そんな風景が目に飛び込んできます。お年を召した方は「なんてはしたない」と目をそむけています。それが今風なファッションであると言ってしまえばそれまでですが,その感性が気に掛かります。

 彼らは周りを気にする脳の働きが機能していないのではないか,ということが心配なのです。人は学習しなければ,幼形成熟と呼ばれている幼児期の特性のままに育ちをします。人としての脳の成長が長期間にわたって伴わなければなりません。

 その発端になるのが,周りを気にするという機能です。環境に適応しようとすることによって,人は知恵を磨いてきました。個人としても,周りのことを気にしなくなれば,何も考えなくて気楽に暮らせますが,それでは脳の成長が停止します。長期に寝込んでしまうと手足の筋肉が萎えてしまうのと同じことです。

 ファッションという確信の下での自堕落ぶりであるなら心配はないのですが,単なる幼児性であるなら先行きはとても不安です。価値観の多様性の発露であると主張しているつもりかもしれませんが,どう見ても価値観とは縁遠いものにしか受け取れません。

 若者が育ってきたこれまでの期間,気にする周りや,近所の人の目といった環境が存在していなかったせいでしょう。そんなものいちいち意識していたら気が滅入って窮屈でしようがないという逃げ腰が,脳の成熟を停止したのでなければいいのですが・・・。



【質問6-05:あなたのお子さんは,人前で緊張しますか?】

 《「人前で緊張」という意味について,説明が必要ですね!》


 〇誰がつき合うのでしょうか?

 人格という言葉があります。辞書を引くと,「その人の物の考え方や行動の上に反映する,人間としてのあり方」,「能力と自覚を備えた一人前の人間として認められること。また,その存在」とあります。

 人は生まれただけでは人ではなくて,人に育たなければならないようです。そこに産みの母と育ての母の出番があります。この「子育て羅針盤」では,子どもの中にもう一人の子どもを誕生させて,もう一人の子どもを人間に育てるという言い方をしてきました。自分の過去を振り返って思い出すことのできる時期,いわゆる物心つく時期がもう一人の自分の誕生日と考えてみてください。

 第一の誕生をした赤ちゃんは母乳で育ち,第二の誕生をしたもう一人の子どもは母語で育っていきます。ママの言葉を糧にして人格が育っているということです。自立とは,もう一人の自分が自分を立たせることです。自我という言い方にも,自分と揃い踏みをするもう一人の自分,我がいるという考え方が見て取れます。一人前の人間とは,もう一人の自分のことなのです。

 我を忘れるとたいていよくない仕儀になりますが,もう一人の自分が蒸発するからです。惚けるというのも自分だけになってしまうことですから,周りの人とは通常のつきあいができなくなります。ストーカーなどの犯罪も,自分だけが育って,もう一人の自分が育っていない未熟児と言えます。

 社会的なつきあいは,このもう一人の自分のつきあいです。自分の本音をもう一人の自分が建前で補うから,つきあいが可能になります。自分の人情にもう一人の自分の義理が絡むことで,多少の混乱はあるにしても,つきあいが成り立っていきます。

・・・もう一人の自分たちが人間社会を作り上げています。・・・


 〇人見知り?

 子どもは家庭で生まれ育ちますが,やがて社会につながりを持っていきます。最初に出会う社会は近隣の人たちです。慣れないうちは人見知りをします。どんな人か分からないのですから当然です。人見知りは自分の親とよその人を区別できるからですが,その感覚はもう一人の自分の誕生の兆候です。

 人のつながりは紹介者がいると円滑に運びます。紹介者が双方に対する信頼の裏付けをしてくれるからです。子どもの場合には,ママが紹介者になってあげましょう。ママが機嫌良くつきあってみせると,子どもは相手の方を信用できます。ママの友だちは私の友だちと,自然に輪がつながっていきます。

 親同士で話に夢中になっていると,子どもが相手の方にちょっかいを出していくことがあります。人なつっこく傍に来たのでひょいと抱き上げてやろうとすると,途端に泣き出されたりします。身を任せるほどの信頼感はなかなか得られるものではありません。

 自分から手を出している間は,つきあいが自分の裁量でできています。嫌になればやめればいいのです。しかし,相手に捕まると相手の裁量下に入ってしまうので,不安が出てきます。子どもはおそるおそる人とのつきあいに入っていこうとしています。ゆっくりと時間をかけて慣れていくことです。

 いつも人が出入りしているような家庭で育てば,子どもは人なつっこくなります。人見知りは見られないかもしれません。それは,家に出入りする人が子どもに対して「坊ちゃん,嬢ちゃん」という対応をしてくれるからです。本当の他人と出会うときの人見知りを免れているだけです。

・・・子どもが人見知りをするのは,成長の一里塚です。・・・


 〇内気?

 ママは明るい子どもに育って欲しいと願っています。子どもが引っ込み思案であれば心配です。消極的よりも積極的な方が良いと思いこんでいないでしょうか? 人はそんなに単純に割り切れるものではありません。慎重であれば消極的に見えますし,無鉄砲であれば積極的に見えます。

 内気であるとか,気弱であるといったことも心配の種になるでしょう。でも,心配には及びません。ものは考えようといった気休めなどではなくて,育ちにとっては大切な課程の一つなのです。内気に見えている時期に,子どもはしっかりと必要な育ちをしているのです。何よりも,子どもはまだ育ちの途中であるということを弁えてください。成長するにつれて変わっていきます。

 車の運転を覚えるとき,アクセルの使い方を覚えて走りに熱中すれば,やがてスピードを増やしていきます。車はまず,ブレーキ操作から覚えなければなりません。その上でアクセルを楽しむことができます。

 社会生活では子どもなりにしてはいけないことがあります。まず,自分に必要なブレーキ操作を覚えようとしています。どのようにしているのでょうか? それは他人の目です。もう一人の自分が人に見られていることを意識することで,自分にブレーキをかけていきます。

 この他者を意識することは,もう一人の自分が育っていく上で不可欠なプロセスです。もう一人の自分が他者と重なっていくことが成長だからです。人目を気にしすぎることは邪魔になりますが,かといって人目を全く気にしないというのはもう一人の子どもの成長を不可能にします。

・・・内気であることは,もう一人の子どもの伝い歩きなのです。・・・


 〇人脈?

 もう一人の子どもが他者の意向を理解できないと,分からないという不安感がつのります。いつまでも不安なままに据え置かれると,外に出るのを嫌がるようになり,ひどい場合は引きこもってしまうでしょう。もちろん,普通にしていれば大丈夫です。

 さて,その普通にするということがどういうことか,知りたいですね。子どもの心に人は信頼して大丈夫という種を,ママがきちんと植え付けておけばいいのです。ときどき,「ママの目が怖い!」という子どもがいます。見守られているという安心ではなくて,見張られているという不安を感じています。これでは人を信じられませんね。

 親に見守られることで,子どもは親を信頼します。その上でさらに,ご近所の方に見守られていることを実感すれば,外の世界は大丈夫と信頼できます。地域の人を信じられるようになることで,世間の人への安心感が得られるようになります。家庭だけでは,その大きな一歩を踏み出すことはできずに,内弁慶という段階にとどまるはずです。

 一つの目安として,親と先生以外の大人で,年齢と同じ数のよその大人とのつきあいを持つようにしてしてください。つきあいといっても,会えば挨拶をして,立ち話ができる程度で十分です。ご近所の大人と会っても口も聞いたことがないという環境では,もう一人の子どもの育ちは覚束ないでしょう。

 世間の目が自分をどう見ているか,自分に好意的であるか,それが確認できたら,人を信頼しようとしますし,もう一人の自分が自信を持てるようになります。このステップは本来普通の地域生活をしていれば意識しなくてもクリアできていたことでした。最近の地域生活を見ていると,ママが意識的にセッティングしなければ適えられなくなっています。蛇足ですが,この育ちは今の若者に見られる社会性の欠如を免れる根元なのです。

・・・よそのおじちゃん,おばちゃんが,子どもを育ててくれます。・・・


 〇緊張感?

 ママも人前に出ると緊張するでしょう。立ち話は得意でも,ちゃんとした席で挨拶をすることになれば,まず逃げ出す口実を探します。PTAの委員などに推されたら,人前で話さなければならないので,引き受けるのに二の足を踏みますよね。

 誰しも見られる立場になると,内面,外面のいろんな意味で格好を気にします。もちろん,見て欲しいという自信があれば,そんなことはないでしょう。見られたいと思うときは,誰もが認めてくれるはずであるという確信があります。つまり,もう一人の自分の判断が他者の目を通したものと同じであると感じているはずです。

 ただ,他者の目を完全にもう一人の自分が掌握できるわけもありません。そこで,例えば人並みにというところに落ち着きます。ファッションも流行に会わせていれば安心というわけです。ティーンエイジはまさにその渦中にあります。個性といいながら,真似をすることでしか,人前に自らをさらす自信が持てません。タレントによる格好良さの保証が必要なのです。それもまた,もう一人の自分の訓練の一環です。

 同世代だけのつきあいをしていると,他者といってもほとんど同じですから,本当の他者の目を持ち得ません。ここでも,もう一人の自分は育てなくなります。世代への引きこもりです。異世代とのつきあいを避ける理由は価値観が違うことによる緊張感が嫌なためでしょう。しかし,その緊張感こそがもう一人の自分の栄養になるのです。苦い薬味であったり,思いもかけない甘味であったり,心に染みいる風味が楽しめるはずです。

 「かわいい子には旅をさせよ」という子育ての諺は,環境を変えることでもう一人の自分が大きく育つという意味です。休みになって○○ランドに遊びに行くこととは違います。旅の空は遠くではなくて,すぐ傍にある地域ランドの上にあります。

・・・他者を飲み込めるようになれば,緊張感を楽しめます。・・・


 〇畏れ?

 大人の注意を聞こうとしない子どもたちが増えてきているようです。図書館で自分勝手に騒いで,注意されても聞かず,拳骨をもらったことを根に持って,多数で寄って集って殴り殺すという犯罪が起こっています。決して特別な事例ではなく,またかという世情になっているのが気がかりです。

 「頭に来た!」と自分に素直になることが良いことだと勘違いしています。本当はもう一人の自分に素直になることが大事なのです。大人はもう一人の子どもを育て忘れていることに気がつくべきです。自分に素直に生きようとするなら,人とはいっさいの関わりを持たないことです。自分に素直になることが自分勝手な行動に偏向するのは,社会がもう一人の自分の世界だからです。

 もう一人の自分が育っていれば,自分と他者との間合いを見極めることができます。自分を客観視できるのは,自分ではなく,もう一人の自分なのです。社会の中での自分という立場が見えたら,注意される自分をされない自分にしようともう一人の自分が思うはずです。そんなもう一人の子どもを育てることがやるべき子育てです。

 では,どうしたらいいのでしょうか? それは大人への畏れを埋め込んでおくことです。大人には適わない,大人は優しいけれど怒ると怖いという体験です。恐怖ではなくて尊敬という畏れです。社会には従わざるを得ない何かがあって,それを大人は持っていると思わせることができれば,もう一人の子どもは大人の言葉を聞こうとします。

 この面では,特にパパにしっかりしてもらわなければなりません。パパはパパであるだけではなくて,子どもに最も身近な大人の代表なのです。子どもがパパの中に「大人」を見ていれば,よその大人をパパにつながる人として認められようになります。寝ている場合ではありませんよ!

・・・畏れは人が育つ上で必要不可欠な方便です。・・・



《人前で緊張とは,もう一人の自分の覚醒です。》

 ○ベネディクトは日本文化が「恥の文化」であると書きました。恥とは世間の目,他人の目を意識することで育て上げたもう一人の自分の分別でした。確かに自由に対する歯止めとしては窮屈なものであった時期もあり,すっかり廃れてしまいました。

 しかし,恥という言葉を捨てると同時に,もう一人の自分を育て上げる道しるべまで根こそぎ破棄してしまったようです。他者を思いやるという優しさは,教えて身に付くものではありません。他者を自分の中に取り込みながら育つというプロセスから滲み出るものなのです。


 【質問6-05:あなたのお子さんは,人前で緊張しますか?】

   ●答は?・・・もちろん,「イエス」ですよね!?

「子育ち12章」:インデックスに進みます
「子育ち12章」:第6-04章に戻ります
「子育ち12章」:第6-06章に進みます