*** 子育ち12章 ***
 

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「第 7-01 章」


『世の中が 悪いと愚痴る パパ悲し』


 ■はじめに

 男はつらいよ。パパの胸にはその言葉が深く沈んでいるかもしれません。上司や女房はあれこれ言うばっかり。言われる身にもなってみろ。全部聞いていたら身が持たない。疲れた!

 言われるのがイヤだったら,言われないようにしたらいいでしょ。自分ばっかり苦労していると思っているなんて甘いよ。イヤなことはみんな押しつけておいて,よく言うよ。交代しようか? 愚痴る暇もないんだから。

 自分がどんなに苦労しているか,連れ合いに分かって欲しい。それだから,自分のことばっかり並べ立ててしまう。苦労のし甲斐がないと思ってしまいます。自分を理解してくれる人と思ったから一緒になったはずです。でも現実は甘くはありません。自分のことで精一杯になります。

 生活の潤いって何でしょう? 暇があること,金に余裕があること,旅行に出かけること,ゆっくりテレビが見れること,美味しいものを食べること,いろいろあるでしょう。そこに連れ合いと一緒に過ごすイメージがあればいいのですが。

 クマさんの潤いはちょっと変わっています。お茶を入れてくれたらありがとう,ものを取ってくれたらありがとう,ありがとうの大盤振る舞いです。きちんと受け取る気持ちを伝えることです。もう一つは,日に一度は下心なく一瞬の間連れ合いを抱きしめることです。

 中学生の時に切り抜きをしていた小さな囲み記事の記憶が残っていたからです。夫婦は時計の針に似ているという意味の言葉でした。長針と短針はそれぞれのペースで動くから時計なのです。そして,日に二度はピタッと重なり合っています。お互いのことしか考えない一瞬を保つためには,それが最も自然のような気がしています。変ですよね!



【質問7-01:あなたの家庭では,パパの座を決めていますか?】

 《「パパの座」という意味について,説明が必要ですね!》


 〇どこにいたらいいのでしょうか?

 お呼ばれの席や宴会などに出ると,初めのうちは誰も着席しません。勧められると末席の方から詰まっていきます。幹事の方に促されて上席に移されると辞退されますが,仕方ないという顔で着席です。そこからが落ち着かなくなります。自分より上席に誰が座るかと気になさる方がおられます。

 披露宴の席決めで苦労されたことを思い出してください。人が集まるとそこに何らかの序列が浮き彫りになってきます。自分はこの辺でいいと思う席に座れば落ち着きますが,それより上でも下でも居心地はよくありません。

 一人っ子で家族の中心にいた子どもが,弟や妹が生まれたせいで何となく脇役に回されたとき,居場所が奪われたような気分になります。新しい居場所を作ってやらなければ,落ち着かない子どもになりかねません。

 お兄ちゃん,お姉ちゃんという居場所です。それは下の子の面倒をみる優しさを褒め称えることで培われます。有り体に言えば,名目的な上席を作るわけです。下の子は構ってもらうという実質を受け取ります。自分はお兄ちゃんだから,お姉ちゃんだからというプライドを持てば,やせ我慢することができます。

 それだけではやはり我慢の限界に行き着くようになります。適当なはけ口を用意しておかねばなりません。それを担うのがパパです。小さな子はどうしてもママの方が関わりますので,大きな子の方をパパがしっかりと抱きしめてやる役回りになります。パパと面白い遊びができるとか,どこかに連れて行ってもらえるといった特典が大事になります。

・・・家族の中にも子どもの育ちに応じた席順があるのです。・・・


 〇絶滅種?

 今どきのパパさんは,と始めると年輩者の繰り言のようになりますが,ちょっと耳ならぬ目を拝借させてください。パパの育った時代は父親が仕事に燃えていたときで,子どもとの触れ合いなど無頓着でした。男の子は父親が育てるものなのですが,母親に任されていました。厳しい言い方をすれば,父親らしいことは何もしていませんでした。

 そんな育ちをしたパパに父親としての性根が身に付くはずもありません。ママに甘えることしか知らないままに,その先には連れ合いに甘える術だけを発揮しています。子どもより手の掛かる存在になっていきます。自分のことも始末できないという家庭生活は,その育ちのせいです。

 勉強さえしていればいいという受験育ちが,仕事さえしていればいいという賃金稼ぎに変わっただけです。かつて家庭がホテル化していると指摘した先生がおられましたが,その際たる先例が他ならぬパパの生き方なのです。自分で自分の家庭を放棄していると言えばまだ望みはありますが,実のところは家庭を自分で作ろうとしたことは一度もないのでしょう。

 父親として何かをしなければと考えても,自分の父親が自分にしてくれたことを思い出すことはできません。忙しく働いているらしいという曖昧な姿しか思い出せないからです。家庭での父親の記憶がないので,母親のしてくれたことを思い出しながら,親の役割を果たそうとします。

 時代の流れの中でママはパパに子育てへの協力を求めます。求められるパパは母親を見習っていきます。育てられる子どもから見れば,ママが二人いるように思われます。パパがしてくれることはママと全く同じだからです。父親という人種は絶滅種に登録すべき状況にあります。

・・・労働する者はそれだけで養育者には成り得ません。・・・


 〇座?

 自分にとって大事な存在だと思っている人に対して,人はどんなことを望むでしょうか? 妻にとって大事な夫,彼に「もっと稼いできて」と寝言にこと寄せて望んでいるという話がありました。稼がなくなったら用無しという行く末が恐いですね。

 手の掛かる子どもは要らない,邪魔になるからいなくなればいい,ふっと思ってしまう自分も恐いですね。自分のわがままをきいてくれないママなんか車に轢かれてしまえ,子どもも結構恐ろしい一瞬をかいくぐります。

 ママは子どもに尋ねています。「ママのこと好き?」。正直な答えは「好きなときもあれば,嫌いなときもある」,でも口に出るのは「もちろん,好き」になります。そう言えばママが喜ぶことを知っているからです。でも実は,子どもの方が「ママ,私のこと好き?」と尋ねたいのです。

 この好き嫌いは揺れ動く宿命を背負っています。いい子が好き,わるい子は嫌いということです。条件付きなのです。勉強ができたら好き,お手伝いができたら好きということです。パパにも及びます。家事を手伝ってくれないパパは嫌い?

 家族であることは,どんな条件も付けずに,「そこにいるだけでいい」という存在感でつながることです。病気がちの連れ合いにたとえ完治しなくてもそこにいてくれるだけでいいと思うから,家族としての看病ができます。家族には父親,母親,子どもという座があります。お互いが相手の座を尊重するような家庭の運営が望まれます。そこで,まず基本的なパパの座は,そこに座っているだけいいと感じさせる存在感です。

・・・パパは座っていればいいとは言っても,座りようがあります。・・・


 〇聞き耳?

 ママの不満は,子育てについて話しかけても耳を貸さないパパの無関心です。テレビに夢中になっているというように,自分の殻に籠もっている人は周りにとっては目障りなだけです。いない方が清々します。こうして,父の座は消えていきます。もちろん,極端な話ですが,見当はずれでもありません。

 パパは忙しいから,パパは疲れているから,パパは考え事をしているから,パパは手が離せないから,パパは出かけるから,パパは一杯飲みたいから,パパは眠たいから,パパは電話するところだから,パパは人を待っているところだから,・・・。パパの目は家族の方をチラッとも見向きません。邪魔だなと言いたげな視線をのぞかせるだけです。こうして,誰も寄りつかなくなっていきます。

 言葉を交わし関心を共有できる間柄が,基本的な人間関係です。俺は稼いだ金を入れている,そんな乱暴な理屈で家庭に居座っているのは,家庭を買おうとしていることと同じです。接待を金で提供するサービス店と混同しています。家庭人という気持ちが微塵もありません。

 ママが何を悩み,何を喜び,子どもはどう育っているか,お互いのことを知りつつ,自分はどのように関われるのかを考える,その姿勢を明瞭にしなければ,パパは自分の座を得ることはできません。

 ママや子どもの話を聞くのは面倒だと感じることがあれば,家庭喪失の兆候です。情報化社会の中で仕事をしていながら,情報の使い方が上手ではありません。情報は聞く人のところに集まるものです。聞いているというサインが点滅していれば,情報の方から飛び込んできます。その後で,情報に込められた「情」にできる範囲で「報」いていけばいいのです。知れば何かをしようという気になるものです。

・・・家族の情報を集めていれば,自然に家族としての座ができてきます。・・・


 〇三次元化?

 子育ては,子どもを表面的に見ていると迷います。例えば,いつも大声で話すのでママは元気な子と思っています。ところが学校に行くとか細い声で話していたりします。ママは先生から元気を出すようにし向けてやってくださいと言われてしまいます。ママには何のことやら分かりません。

 うちの中では片づけなどしたことがないのに,学校ではちゃんと整頓ができるということもあります。子どもはその場に応じた姿を見せてくれます。家にいるときの姿がそのまますべてはありません。どうしてママの目に触れない子どもが育っていくのでしょう?

 あまり上等な例えではありませんが,車を運転しているときにパトカーが目にはいると減速してしまうことがあります。子どもだって,ママの目があるからということは効きます。逆に誰も見ていないところでは,誰しも歯止めが緩みます。旅の恥はかきすて状態になります。

 野放しではいけませんが,ある程度は見て見ぬ振りをすれば,子どもはより正直な姿をさらけ出していきます。ママの目は身近にいるだけに細かなところを見逃しません。それだけに子どももぼろ隠しが上手になります。ママは思っています。甘い顔をしていたら子どもはきりがないと。だから,子どもは表面を取り繕って隠れていきます。

 パパの目はどちらかといえば大らかでなければなりません。小さなことはお目こぼししてやると,当然にハメを外し始めます。そのギリギリのところで一喝します。ものごとには程度があることを教えるのです。行動そのものを表面的に封じ込めるのではなくて,してもいいけど限度があるという奥行きをしつけるのです。部屋の中を走り回ります。少しならいいけど,スピードは控えめにということです。

・・・見えている行動の奥行きに目を向けるのがパパの目です。・・・


 〇柱?

 若いパパに感じられることは,中途半端な振る舞いということです。ものごとにけじめをつける,きりをつける,やり遂げる,あきらめないでがんばってみる,もう一押しをしてみる,ねばってみる,そのような最後の詰めが甘いのです。何かあると途中で放り出して,愚痴や言い訳が出てきます。

 愚痴を言う人は信頼されません。なぜなら,愚痴は逃げた証拠だからです。「だって,でも」という言葉を口にしているうちは,誰も頼りにはしてくれません。家族という集団には柱が必要です。柱は屋根の重みを黙って引き受けるものです。重たいからいやだ,どうして自分が,と言う柱はありません。逃げずに引き受けてくれるから,信頼されるのです。

 パパは柱になる役目を背負っています。社会の中では家庭を持っていることを信頼の条件と思っているのは,柱という役目をこなしているという推察をしているからです。パパになれなかったら,社会に出ても愚痴しか言わないつまらない人と思われるだけでしょう。

 もちろん,家庭を顧みずに社会で仕事をばりばりとこなしている猛者もいます。でも,実のところは人としての信頼は薄く,上手に利用されているはずです。あの人とつながっていると得するといった程度のことです。ちょっとでも傾いたら,たちまち人は離れていきます。そこで,愚痴が出てきます。

 人は誰でも面倒だなと思う役割を担いあっています。それをイヤな顔を見せずにさらりとやり遂げるとき,周りの人は頼れる人と感じます。器の大きさと言われていることも同じです。難しいことですが,そうなろうとしているパパであってほしいものですね。きっとママは惚れ直すことでしょう。

・・・逃げるとは卑怯なり,そう言わせない覚悟がパパの心情です。・・・



《パパの座とは,家族の拠り代になることです。》

 ○上座に据えると言えば古くさいですが,要がきちっとしていないと,家族はバラバラになります。どっしりと引き受けてくれる柱があれば,その場は落ち着きます。それぞれが自分の居場所を確保できるからです。

 宴席でお偉いさんが上座をしめているから,それぞれの落ち着く場所が決まります。漫然と座っていたら,気楽かもしれませんが,まとまりはありません。家族には求心力が必要です。ボクはこの家の子だという安心感が子どもの居場所ですが,この家を背負っているパパの実態が感じられないと,この家というものが陽炎になります。

 単純にパパが偉いというのではなく,どっしりとした重心であって欲しいということです。尊敬されるパパとでも言っておきましょうか。パパがそこにいるだけで安心できるという存在です。「ママはどこ?」と尋ねる子はいても,「パパはどこ?」と尋ねる子は少ないのでは・・・。


 【質問7-01:あなたの家庭では,パパの座を決めていますか?】

   ●答は?・・・もちろん,「イエス」ですよね!?

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